学校でのできごと、友だちのこと、家族のこと、将来のこと――。
広島、長崎に住む10代の若者3人が、それぞれの何げない日常をしたためた日記があります。
1945年8月、「あの日」までの日々。毎日、1日分ずつ紹介していく予定です。
■■■1945年8月4日(土)■■■
暑い中の農園作業、母の代わりに家事、映画鑑賞…それぞれの土曜日を過ごします。
今日も、農園の作業であった。昨日と同じように暑かったが、我慢して一生懸命にやった。
帰宅途中、桟橋で帽子を海に飛ばした。目の前で揺れているのだが、とれなかった。折角(せっかく)、母が買って下さったのにと思うと、残念でならない。どうも気持ちが面白くない。
母が義勇隊の勤務奉仕に行くので、私も早く起きて手伝いをし、出て行かれた後の整理をして学校に行った。
Pさんはじょうだんばかり言って、人を怒らせては笑っておられた。私とはどうも性が合わないらしい。
悲しいかな、私の親友、姉となって導いてくれるお友達は一人もいない。私は悲しい。私は姉があって、私を少し叱って下さったら、もっともっとよい子供になれるのではなかったろうか。
母はいないので寂しいなと思って家にかえると、祖父が「お母さんは具合が悪くてかえったよ」とおっしゃったので、すぐ行って見ると、ねておられた。少し不安な気がした。そのうちに産婆さんを呼んで体をみてもらっておられた。私はいそがしくていそがしくてたまらない。夕食は完全に私がこしらえた。母はおいしいおいしいといって下さったので、うれしかった。
昨日に続く悪天候だ。今日も9時から校内清掃作業だった。余などの分隊は薬専の倒壊電柱の復旧に当たる。3時に終わって帰った。
天候が明るかったところが早速途中で空襲警報がでた。先日の被爆ですっかり慌ててしまって市中待避にごった返している。こんなことでは駄目だ。まだ始まったばかりなのに。
夜、富士館に「東海水滸伝」を見に行った。面白かった。帰途警戒警報が出た。ちょうどすんだ後でよかった。
記事の後半では、冒頭の日記を書いた森脇瑤子さんのスナップを、研究者の協力を得てカラー化した写真の数々を紹介しています。
この日の広島・長崎
広島 最高気温30.5度…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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