学校でのできごと、友だちのこと、家族のこと、将来のこと――。
広島、長崎に住む10代の若者3人が、それぞれの何げない日常をしたためた日記があります。
1945年8月、「あの日」までの日々。毎日、1日分ずつ紹介していく予定です。
■■■1945年8月1日(水)■■■
警報とともに頭上に現れた敵機、煙に包まれる病院…。医学生の秋口明海さん(17)はこの日を「生涯忘れ得ぬ日」と記しました。
「八月一日、本当に夏だなあ」と、深く深く感じた。今日、護国神社へ参拝した。とてもすがすがしく、気持ちがよく、心がすっきりした。
モンペが出来上がって嬉しくてならない。嬉しい、何度言っても、嬉しい。今度は運動服を縫うのであるが、今度こそ、遅れないよう気をつけよう。
福島川では、多くの子供たちが泳いでいた。その橋の上を5、6人の子供が下を見ていた。その橋をすぎると、5、6年ぐらいの男の子が家の前や玄関に水をまいていた。色は真っ黒く体格も立派だが、泳ぎもしないで掃除している姿は大へん立派だった。私は感心した。この暑いのに、友達は泳いでいても自分のやることは必ずやる。これは私を立派に反省させてくれた。
家に入ると、小さな茶わんに十二はい水をのんだ。体をふいて下校途中のことを思い出して、すぐ庭などに水をまいた。さっぱりしてうれしい。
夜は被服の整理をして、国文の九、父の仇(かたき)を解釈した。警戒警報になり空襲警報になったので、スタンドをおおいつくしてノートの三分の一ぐらいの大きさのあかりで、本をよみ、帳にうつし、じ書を引いて、やっと10時45分に出来上がった。
8月の1日、この日は生涯忘れ得ぬ日である。
11時半ごろ、L先生の有機化学の講義が終わった後、警報によって防空配置についていると敵機が頭上に現れた。
例のごとく猛然火を吐く地上砲火と敵機とを見物してると、突然頭上からばらばらと土砂が落ちてきた。やられたとばかり付近の教室の床下に潜り込む。
第1波が去ったのではい出ると病院はもうもうたる煙に包まれている。我々消火班員はそれとばかりポンプをかついで消火に駆けつけた。燃えてるのは産科・婦人科だ。敵の波状攻撃の合間を見ては消火に懸命になる。皆が真剣そのものだった。
弟の出勤先の工場が相当やられてたので心配でたまらなかったが、帰ってみると元気だったので安心した。千代子姉さんも今日帰って来られていた。
こうして一日は、忘るべからざる一日は過ぎた。
記事の後半では、冒頭の日記を書いた森脇瑤子さんのスナップを、研究者の協力を得てカラー化した写真の数々を紹介しています。
この日の広島・長崎
広島 最高気温32.3度…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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