「バヤルタイ」。モンゴル語で「さようなら」、そして「幸せと共に、またあなたと会いたい」、そんな意味もある言葉です。1600人以上の犠牲者を出し、シベリア抑留よりも高い死亡率だったという、終戦直後にモンゴルでおきた日本人の抑留。その歴史はあまり知られていません。
抑留中に両足を失い、帰国後も戦友たちの慰霊のため、モンゴルに40回以上通い続けた男性がいます。男性が94歳で臨んだ「最後」の慰霊の旅に、モンゴル出身のディレクターが同行しました。 (取材・中京テレビ報道局 O.ホンゴルズル)
生還した者としての使命
1947年11月。日本人のモンゴル抑留が始まってからちょうど2年後。過酷な環境の中で、生き残った約1万人が帰還しました。
私がであった、終戦直後にモンゴルに抑留され、凍傷によって両足を切断した友弘正雄さん(95)も、22歳で日本へ帰還。
両親と念願の再会を果たしました。まずは義足を作り、歩行訓練を始めました。そして、招集前から勤めていた国鉄に復職。結婚し、3人の子宝にも恵まれました。
しかし平和な毎日を過ごすうち、日増しに強くなる、ある思いが。
「日本に帰ってきたでしょう。そして本日まで生きている。誰かが犠牲になってくれたんじゃないかなという気持ちがあって。誰か分からないけどありがとうございましたとお参りしなきゃいかんというのずっと思っていて」(友弘さん)
モンゴルの大地に取り残された戦友たち。墓参りと遺骨収集はできないものか、ずっと願っていました。しかし当時モンゴルとは国交がなく、民間人の入国は絶望的でした。
外交関係が樹立されたのは、1972年。3年後ようやく許可が下り、墓参団としてモンゴルへ。初めて戦友たちの墓の前に立ちました。
亡き仲間との再会まで、28年。その場で泣き崩れました。
以来、毎年のように慰霊の旅を続け、その回数は40回を超えました。
慰霊の旅から生まれた絆、そして再会
94歳を迎えた今回、最後となる慰霊の旅で、友弘さんにはどうしても訪ねておきたい場所がありました。モンゴルとのつながりが、より深まるきっかけとなった場所だといいます。
「全部子どもたちの写真。ここは、子どもたちの勉強室です」(友弘さん)
大きな本棚が置かれた部屋。日本語の五十音表、日本製のノート。数年前まで友弘さんら日本人が運営していた「孤児院」を訪ねたのです。
どうして、元抑留者がモンゴルで孤児院を作ることになったのでしょうか?
「このころ、本当に社会主義が崩壊して貧しくて貧しくて。ストリートチルドレン、マンホールの子どもたちであふれていたんだよね」(友弘さん)
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