東日本大震災から11日で12年になります。関連死も含め死者・行方不明者は2万2212人に上りました。大津波に奪われた多くの尊い命を悼み、東京電力福島第一原発事故の影響を今なお受ける人たちの苦悩を忘れない――。きょうをそんな日に。各地の動きをタイムラインでお伝えします。
■■■3月11日■■■
07:48
「ずっと忘れられない」 岩手・大槌町
11日、岩手県遠野市に住む高校3年生の男性(18)が、家族6人で大槌町に墓参りに訪れた。12年前、同町に住んでいた親戚6人が津波の犠牲になった。
「高校卒業と大学進学の報告をしました。当時、6歳で年長だった。12年、あっという間です。亡くなった人のことを思い、生きてきました。震災のことは、ずっと忘れられないです」
07:33
18歳で亡くなった孫を悼む 岩手・大船渡
11日、岩手県大船渡市で、菅野明美さん(69)が孫の船本裕介さん(当時18)の墓参りに訪れた。裕介さんが津波に流されて亡くなったのは、高校を卒業し、まもなく漁師として働くことが決まっていた矢先のこと。「『働いたお金は一番最初におばあちゃんにあげる』と言うほどの家族思いだった」。静かにその死を悼んでいた。
07:00
「本当に可哀想でね」 宮城・山元町の自動車学校跡地
教習生や従業員らが犠牲になった宮城県山元町の常磐山元自動車学校の跡地では、石材会社従業員の樋口功さん(73)=同県丸森町=が慰霊碑に手を合わせた。
同校では避難が遅れたことで多くの犠牲を生んだ。「本当に可哀想でね」。防潮堤は高くなったものの、「もっと大きい津波が来るかもしれない。自然には勝てない」と思う。
当時は大量の墓石の修理や墓の建て直しが必要となり、後に仲間と山元町内で新たな石材会社を立ち上げた。そばを通るたびに、今でも車を止めて碑に向かうようにしている。
06:26
「生きていたら今ごろ中学生かな、高校生かな」 岩手・大槌町
岩手県大槌町で11日、日の出とともに夫婦で墓参り訪れた女性(72)。12年前の津波で、33歳の娘と2人の孫が帰らぬ人となった。「痛かったね。つらかったね」と何度も墓をさすり、手を合わせた。
発生してから4、5年は喪失感があり、津波が憎く、海が嫌いになった時もあったという。「孫が生きていたら今頃、中学生かな。高校生かなって想像してしまう。でも帰ってこない。2度と津波は起きてほしくないです」
06:10
春から高校生「自分たちが考えないと」 宮城・深沼海岸
多くの犠牲者が出た仙台市若林区荒浜の深沼海岸では日の出の時刻に、海に向かって手を合わせる中学生3人がいた。前日が卒業式で、4月から高校に進学する。その前に、震災のことを改めて考えようと、誘いあって訪れた。
佐藤佑作さん(15)は震災当時3歳で、青森県にいた。その時の記憶はもちろんない。仙台市に引っ越してからも、小学生のころは震災や津波は、歴史の出来事のように遠くに感じていた。ただ、中学の授業で震災についてより詳しく学び、「仙台に住む自分たちが考えないと」と気持ちが変わった。
海に向かって手を合わせながら考えていたのは、もし、いま大地震が起きたら、ということ。「10メートルの津波が来たら、逃げられないかもしれない。怖い」。高校でも震災や防災について学んでいきたいという。
06:04
「震災当初は海を見られなかった」 宮城・東松島市
震災で住民の約3%にあたる約1100人が犠牲になった宮城県東松島市。津波が襲った野蒜(のびる)海岸には、近くに住む会社員の小田嶋敦さん(61)が、昇る朝日を撮影に訪れた。「ここ数年の3月11日で一番いい日の出ですね。震災当初は海を見つめることはできなかった」と涙を浮かべた。
家族は無事だったが、津波で自宅を失い、知人が犠牲になった。震災から3年を経て地元に自宅を再建。「故郷の風景を失ったのは悔しくて仕方なかった。自然災害にはあらがえないが、この経験をしっかり受け止め、次の世代に伝えていかないといけない」
06:00
「ここに来て、どれほど悲惨かわかった」 宮城・南三陸町
宮城県南三陸町の震災復興祈念公園にある「祈りの丘」では日の出前、東京都世田谷区の会社員松本淳也さん(53)が、一緒に訪れた息子3人に語りかけていた。「このあたりは震災前、住宅街だったんだよ」
松本さんは震災1週間後に同県多賀城市内でボランティアに携わり、その1カ月後、南三陸町でがれきに覆われている光景を目にした。
当時、長男は5歳で、次男は3歳、三男はまだ生まれていなかった。松本さんは「実際に被災地を見せて震災のことを伝えようと連れてきました」
山の間から朝日が昇ると、家族は静かに黙禱(もくとう)。長男の高校生、伽羅(きゃら)さん(17)は「ここに来て、周りに何もないのを見て、津波がどれほど悲惨な出来事だったのかわかった」と話した。
05:57
亡き友人の13回忌に 「これからも見守って」
11日朝、宮城県名取市閖上地区の名取川沿いの防波堤で、日の出を見る髙橋理恵子さん。震災で、宮城県東松島市に住む高校時代の同級生を亡くし、13回忌にあたるこの日、慰霊の意味をこめ、朝日を見に来たという。
「こんなに静かできれいな海なのに、あのときはなんで猛威をふるったんでしょうね。(震災を)忘れてはいけないけれど、やっぱりここでは、海と一緒にこれからも生きてゆくしかないのかな」とつぶやいた。水平線からのぼる太陽を見て、「これからも私たちのこと、見守ってください」と祈ったという。
05:57
「娘に伝える」 日が昇る海で
11日朝、仙台市若林区の荒浜で、岩谷亮さん(34)と娘の美桜さん(6)が日が昇る海を見つめていた。娘に震災のことを伝えようと、初めて一緒に訪れた。
05:50
「まだ大勢帰っていない」 宮城・気仙沼市
宮城県気仙沼市の小泉海岸。県内最大の高さ14・7メートルの防潮堤の上に立ち、地元の市議、及川善賢(よしたか)さん(60)は朝日に向かって静かに手を合わせた。
地域で40人が犠牲になり、うち18人の行方がまだわからないという。自身もおばを亡くした。「知り合いがまだ、大勢帰ってない。その人たちを思いながら、毎年祈る」
周辺の家々は破壊され、草地が広がる。ただ、浜辺は最近、サーファーでにぎわうようになった。
「せっかくの海、せっかくの防潮堤。どう生かしていくか、いつも考える。あれから12年、そろそろ夢を語ってもいい時期なんじゃないか」
■■■3月10日■■■
18:00
エールと鎮魂の思い込め、桜色にライトアップ
被災地へのエールと震災で亡くなった人への鎮魂の思いを込め、大阪府豊中市の市立文化芸術センターが、桜色にライトアップされた。震災直後から東北の被災地支援を続けてきた市社会福祉協議会が企画した。期間は12日の夜まで。
豊中市は、岩手県の大槌町や陸前高田市などと災害時の相互応援協定を締結している。また、豊中市内にある府立桜塚高校は被災地支援のボランティアをきっかけに、2012年に岩手県立大槌高校と、両校の校章が桜をモチーフにしていることから「さくら協定」を結び、交流を続けている。そこで今回、桜色にライトアップすることにした。
10日にあった点灯式には、市社協職員や桜塚高校の生徒のほか、大槌高校の生徒たちもオンライン会議システム「Zoom」で参加し、全員で黙禱(もくとう)した。
大槌高校の生徒たちが復興の歩みなどを紹介し、桜塚高校の生徒の1人が「修学旅行で大槌高校を訪ねて、またいつか関われたらと思っていたので、もう一度再会できてよかったです」と話した後、一緒にカウントダウンして点灯した。
17:00
羽生結弦さんが鎮魂の舞「満天の星は希望の光に」
フィギュアスケートで五輪2連覇を果たし、プロとして活躍する羽生結弦さん(28)が、地元の宮城・セキスイハイムスーパーアリーナでアイスショー「羽生結弦 notte stellata(ノッテ・ステラータ)」を開催し、鎮魂の舞を披露した。
12年前に羽生さん自身も仙台市内で被災。避難所に向かう途中に夜空を見上げた時に、「満天の星」が見えたという。羽生さんは「ノッテ・ステラータは『星降る夜』という意味です。満天の星は希望の光になりました。一つ一つのプログラムが輝く星になるように滑ります」と語った。
ショーには羽生さんと親交のある国内外の著名なスケーターのほか、体操個人総合で五輪2連覇を果たした内村航平さんも出演した。
17:00
「ずっと一緒だよ」「会いたい」 600個の灯籠にあかり
東日本大震災の被災集落跡にある宮城県岩沼市の公園で、市の追悼行事「希望の灯火(あかり)」があった。亡き人を導くように並べられた約600個の灯籠(とうろう)に、元住民や遺族らが次々と火をともした。
灯籠には「ずっと一緒だよ」「ただ愛しい 会いたい」などの言葉が書かれている。小林治身さん(63)は両親の名を記した。あの日、地震の後で家に立ち寄ったとき、もっと強く「逃げろ」と言えばよかったと今も悔やむ。「まだ12年、という感じです。遺族にとって復興は遠い」
森博さん(73)は、被災集落から集団移転をした住民を代表してあいさつ。「亡くなった仲間にとっても、忘れられるのは悲しいこと。後世に語り継いでゆくのが私たちの使命」などと話した。
16:15
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西村康稔経済産業相は職員を…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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