【速報中】きょう長崎原爆の日 台風迫るなか平和への誓い新たに

 1945年8月9日、長崎に落とされた一発の原子爆弾が、7万3884人もの命を奪いました(45年末時点)。日常が一瞬で奪われた、あの日から78年。「長崎を最後の被爆地に」との願いを次の世代につなげるための平和祈念式典が今年も開かれます。台風接近のため、屋内開催となりましたが、この日が持つ意味は変わりません。8日から9日にかけての出来事を速報していきます。

■■■8月9日(日本時間)■■■

10:45

平和祈念式典始まる 台風迫り60年ぶり屋内開催

 長崎市尾上町の出島メッセ長崎で、平和祈念式典が始まった。台風6号の接近に伴い、市は平和公園から会場を変更。各国大使や来賓、遺族らの招待を見送り、市関係者のみで実施した。式典が屋内で開催されるのは、1963年以来60年ぶり。

10:00

式典準備進む出島メッセ 「平和公園の会場イメージで」 

 台風6号の接近に伴い、屋内で開かれることになった長崎平和祈念式典。会場の「出島メッセ長崎」(長崎市尾上町)では式典の準備が進められていた。

 会場の中央には、通常の屋外会場と同様に、原爆犠牲者を慰霊する碑が置かれた。碑を挟むように設けられたスクリーンには、平和公園にある平和祈念像の写真が映し出されていた。長崎市の担当者は「なるべく平和公園の会場のイメージと近づけようと設営しました」と話す。

09:10

「イベントで終わらせない」 爆心地公園を訪れた被爆者の思い

 小雨が降る中、長崎市松山町の爆心地公園には朝から、原爆犠牲者に祈りを捧げる人々が訪れていた。公園には、原爆死没者名簿が納められている。

 日本原水爆被害者団体協議会日本被団協)の和田征子事務局次長(79)も9日朝、原爆落下中心地碑を訪れた。「訳も分からず亡くなった人、今も苦しんでいる人を思うと涙が出る」。自身も1歳の時、爆心地から2・9キロで被爆した。

 式典は縮小開催となったが、この日を「犠牲者を思い、被爆者の声を伝える日にしたい」と話す。「イベントで終わってほしくない。私たちは一年中被爆者ですから」

08:00

「平和への誓い」 今年の読み上げは工藤武子さん

 今年の平和祈念式典で「平和への誓い」を読み上げるのは、熊本市の工藤武子さん(85)。熊本県内で工藤さんと共に活動する被爆2世らも長崎入りしていたが、台風の接近に伴って、式典開始を待たずに熊本に帰る。

 熊本県で高校生平和大使を務める島村理彩さん(16)は、工藤さんの誓いを式典会場で聞く予定だった。原爆投下時刻の午前11時2分は移動中だが、「普段熊本での平和への関心の低さを感じているからこそ、どの場所にいても追悼の時間を過ごしたい」。熊本被爆二世・三世の会の青木栄会長(62)も誓いを楽しみにしていたが、自宅に帰ってからテレビで見る。「式典が中止になるかもしれないと心配していたが、屋内でも実施できてよかった。工藤さんの誓いは、若者へのエールにもなる」と話した。

07:30

高校生50人が平和訴える「人間の鎖」 台風下、今年は室内で

 長崎市大黒町の自治労会館には9日朝、長崎県内外の高校生約50人が集まり、手をつないで「人間の鎖」をつくった。原爆犠牲者への鎮魂と、平和な未来をつくる決意を示している。例年は100人超が集まって原爆落下中心地碑を囲んで鎖をつくるが、今年は台風接近の影響で断念した。

 生徒らは日頃、核廃絶を訴える署名を集める「高校生1万人署名活動」などに取り組んでいる。長崎市の塚根みづなさん(17)は「この日を爆心地公園で迎えられないのは悔しいが、広島や長崎以外の仲間と集まれたことに意味がある。これからも、被爆者の思いや事実を知ってもらうためにアピールを続けていきたい」と話した。

07:30

在外被爆者、アリランで悼む

 爆心地公園のそばにある「長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼碑」前で早朝集会があり、朝鮮半島から渡り長崎で犠牲となった在外被爆者を支援してきた市民や在日朝鮮人らが悼んだ。

 「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」が1979年から開いている。朝鮮の伝統芸能や文化を伝える「福岡朝鮮歌舞団」の3人が福岡県から駆けつけ、「アリラン」や「故郷の春」など3曲を歌い、踊った。歌手の徐美香(ソミヒャン)さんは「アリランは北、南、在日に関係なく民族を象徴する魂のような民謡。ここに眠る方々の悔しさを私たちが受け継ぐ決意を込めて歌いました」と話した。

06:00

浦上天主堂でミサ 家族失った信徒「戦争やっちゃいけない」

 爆心地から約500メートルにある長崎市の浦上天主堂で、原爆の犠牲者を追悼するミサが開かれた。1925年に完成し、「東洋一の大聖堂」とうたわれた浦上天主堂は原爆により全壊、信徒8500人が犠牲になったという。台風6号による強風が吹く中、天主堂内では白いベールをかぶった信徒らが平和への祈りを捧げた。

 あの日、16歳だった田川清さん(94)は原爆で両親ときょうだい5人の家族全員を亡くした。愛媛県の航空隊で訓練中だった田川さんは「新型爆弾が使われた」と聞き、爆心地近くの自宅へ。「自分の家も家族も何も残ってなくて一人になってしまった」。焼け跡をぼうぜんと見たことを覚えているという。

 その後、結婚して子や孫に恵まれたが、原爆のことは話さなかった。「どこかで生きているかもしれないと思って。思い出したくなかったんですね」。語るようになったのは80歳を過ぎてからだ。

 今は大阪府に住み、この日は、孫の山田哲嗣さん(44)の付き添いで数年ぶりにミサに訪れた。田川さんは「戦争はやっちゃいけないです。何もかもなくなります」と語った。

■■■8月8日(日本時間)■■■

19:00

宗教の違い超え350人が被爆者慰霊

 宗教や宗派の違いを超えて平和を祈る原爆殉難者慰霊祭が8日夜、長崎市上野町の長崎カトリックセンターであった。当初は爆心地公園での開催を予定していたが、台風接近に伴い、急きょ会場を変更した。県内の宗教関係者でつくる県宗教者懇話会が主催し、今年で51回目。1973年から毎年8月9日の前夜に開かれている。

 仏教やキリスト教などの関係者約350人が参加し、式は午後7時に始まった。今年は原爆が開発されたロスアラモス研究所がある米ニューメキシコ州のカトリック代表や、ウクライナ正教の司祭も出席。心を一つに原爆の犠牲者を追悼した。

18:00

被爆したガラス瓶を再現して展示、開催に望みつなぐ

 爆心地近くのギャラリーで9日に開かれる予定の「祈りの花瓶展」。企画した長崎市出身の毎熊那々恵さん(33)は「せっかくだから開けたいんですけどね」と心配そうに天気予報を確認していた。

 この展示は、長崎原爆資料館にある被爆して変形したガラス瓶を3Dスキャナーで読み取り、伝統の波佐見焼で再現したもの。2017年から活動を始め、東京や香港でも展示をしてきた。爆心地から約5キロの矢の平町で被爆した芳子さん(93)を祖母に持つ毎熊さんにとっても9日は「1年で最も祈りを捧げる日」だ。今年はガラス瓶が発見された場所からわずか200メートルのギャラリーで、平和公園などを訪れた人たちに花瓶に触れてもらおうと準備を続けてきた。あいにくの予報だが「雨にも風にも負けずに、継承や祈りを続けていきたい」と話した。

 企画展は11~13日にも開かれる。午前11時~午後7時(13日は午後6時まで)。長崎市浜口町の「Tol.GALLERY」で。

17:10

原爆資料館のガイド「多くの人に伝えていかなくては」

 長崎市のボランティアガイド、福田弘子さん(77)は平和公園近くの駐車場で、大阪から来た団体客を見送った。8日は長崎原爆資料館で来訪者を案内したり紙芝居を朗読したりし、午後からは著書「長崎の鐘」などで原爆被害を訴えた医師、永井隆博士ゆかりの如己(にょこ)堂などを案内した。

 台風6号の接近で、9日に予定されていた平和祈念式典の平和公園での開催が中止となった。式典の機材が撤去された公園をみて、「ロシアによるウクライナ侵攻などで核の脅威が高まる中、核廃絶の訴えを世界に伝える機会だっただけに、とても残念です」と語った。

 「たった1発の原子爆弾でたくさんの命が奪われ、一瞬にして一生続く(放射線の)影響が出る。無関心の人もいるが、一人でも多くの人に、核兵器を二度と使ってはならないことを伝えていかなくてはいけない」

16:10

子どもたちが平和学習「ひとごとには思えなくなりました」

 台風6号の接近で時折、降雨や強い風が吹き始めた8日夕、長崎市の平和公園に、北九州市内の小中高校の児童生徒約20人らが平和学習で訪れた。

 北九州市の小倉は、広島に続く原爆投下地の第1目標だったが、1945年8月9日朝の小倉上空は視界が悪く、原爆を積んだB29が予備の目標だった長崎に転戦した、という経緯がある。同市高校1年生の珠久カエラさん(15)は「もしかしたら、私の街にも原爆が落ちていたかもしれず、わたしは生まれていなかったかもしれません。ひとごとには思えなくなりました」。友人とも平和について話したい、と思うようになったという。

15:00

被爆者で医師の朝長万左男さんが講義

 被爆者団体の一つ、「長崎県被爆者手帳友の会」事務所で、「ヒバクシャと語ろう」と題した催しが開かれた。最初に、被爆者で医師の朝長万左男さん(80)が、集まった10人ほどを前に、放射線が人体に与える影響について解説。「原爆放射線は被爆者を生涯にわたって苦しめる」と話し、「放射線のことを学んで、自分なりに原爆の恐ろしさを理解することが、今後、自分の身を守ることにつながる」と訴えた。

 講義の後、被爆者の三田村静子さん(81)が紙芝居で、小学校1年生のときに長崎で被爆した菅原耐子さんの体験を紹介した。三田村さんは「子どものころから平和教育をしていくことが大切。子どもにも伝わりやすい紙芝居を通じて平和の大切さを伝え続けたい」と話した。

14:30

爆心地公園で追悼する人々「核兵器は絶対ダメ」

 原爆死没者名簿が納められて…

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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