【速報中】東日本大震災から13年 慰霊碑に花 手を合わせる人々

 東日本大震災の発生から11日で13年。大切な人を失った悲しみや郷里への思いを抱えながら祈りを捧げます。かけがえのない日常と「次」への備えについて考える、そんな一日に。各地の動きをタイムラインでお届けします。

■■■3月11日■■■

14:46

輪島朝市で元店主ら黙禱「能登も東北のように必ず復興」

 能登半島地震で「輪島朝市」の店舗など200棟以上が焼けた石川県輪島市河井町でも、午後2時46分、元店主らが東日本大震災の被災地の方角を向いて約1分間の黙禱(もくとう)を捧げた。

 朝市通りでラーメン食堂を営んでいた板谷吉生さん(48)は、「東北の人たちが体験した13年前の大変さに、思いをはせた」。自身の家や店舗は全焼したが、「能登も東北のように必ず復興できると、気持ちを新たにしました」と話した。

14:30

大船渡で「祈りのモニュメント」除幕式

 岩手県大船渡市が整備を進めてきた東日本大震災の追悼施設「祈りのモニュメント」の除幕式があった。

 モニュメントは横1・7メートル、高さ2メートルで、ガラス素材でつくられた。「未来へ祈る」などとメッセージが刻まれた。

 震災の記憶を風化させることなく、未来への教訓とするという思いをこめている。

13:30

浪江町の海岸で行方不明者を捜索「少しでも手がかりを」

 福島県浪江町請戸の海岸で、県警と地元消防の約40人が行方不明者の捜索をした。町によると、町内では津波で150人が亡くなり、今も31人が行方不明だという。

 警察官らは一列に並んで砂浜を掘り起こし、骨片や漂流物など行方不明者の手がかりを捜した。

 秋田県警から福島県警に特別出向で1年間来ている船木駿巡査部長(34)は「自分たちよりも困っている福島のために働きたい」と出向を希望したという。船木さんは「ご遺族の方のためにも、少しでも手がかりを見つけたい」と話した。

 この日は同県富岡町仏浜でも、県警など約40人が捜索にあたった。県警によると、県内での行方不明者は196人という。

12:15

 宮城県名取市閖上の災害公営住宅の集会室で、追悼のつどいが開かれた。「天にとどけ 閖上の祈り」と書かれた紙の上に、今年は「能登半島地震」の文字もある。

 手を合わせた高橋春子さん(88)は、「地震のニュースを見て、13年前ああだったと思い出した。苦労は私らと同じ。元気でがんばって」と思いを込めた。

 閖上地区は津波で大きな被害を受け、住民はかさ上げされた新しい市街地で暮らす。6階建て災害公営住宅は高齢者が多い。つどいは住民と支援者らが久々に集まる機会で、皆でトランプを楽しむなどしていた。

11:35

JR石巻線で避難訓練「何が起きてもお客様を無事に」

 宮城県女川町のJR石巻線で、JR東日本東北本部による避難訓練があった。運転士は2両編成の列車を停車させると、「津波です! 率先避難者について、指定避難場所に向かってください!」と、車内のスピーカーで呼びかけた。

 震度6強の想定。運転士と車掌の指示で、乗客役の社員らは列車のドア枠に腰かけてから車外に飛び降り、「率先避難者」役の男性に連なって約200メートル離れた高台の指定避難場所に移動した。

 防災責任者の蓬田(よもぎだ)祐史(ゆうじ)安全企画ユニットリーダーは閉会式で、「東日本大震災を経験したからには、あれ以上の地震や津波が起きても、『想定外』という言葉は使えない。なにが起きてもお客様を無事に避難させられるように、『1分1秒でもはやく、遠くに高く』を心がけてほしい」と語りかけた。

11:30

宮城県の村井知事「真の笑顔を取り戻すまで諦めることなく」

 宮城県の村井嘉浩知事は記者会見で、発災から13年を振り返り、「県の力だけではなく、国の力を借り、市町村の力をあわせて被災者にできるだけ寄り添った対応を心がけてきた」と語った。

 村井氏は、インフラなどハードの整備はほぼ終わったという認識を示した一方、「いまだ心のケアを必要とされる方もいる。被災者のみなさんが真の笑顔を取り戻すまで、みんなで力をあわせて最後まで諦めることなく対応し続けて参りたい」と語った。

 元日に起きた能登半島地震については、復旧・復興の人手が足りていない点を指摘し、「かなり長丁場になると思うが、引き続き、石川県並びに富山県、そして能登町への支援を継続していきたい」と述べた。

11:00

白河市の慰霊碑、遺族らが手を合わせる 土砂崩れで13人死亡

 東日本大震災の地震で土砂崩れが起き、13人が亡くなった福島県白河市の葉ノ木平地区では、地震後に整備された震災復興記念公園で午前11時から犠牲者追悼供養のつどいが営まれ、遺族ら約50人が慰霊碑に手を合わせた。

 当時小学2年だった酒井美緒さん(21)は一緒に住んでいた祖母、祖父、叔父の3人を亡くした。避難所生活で支えてもらった経験から看護師をめざし、22日に合格発表を控えている。

 この日は慰霊碑に花を供え、「私がんばってるよ。応援してね」と3人に話しかけた。将来は災害派遣医療チーム(DMAT)で、自身の経験をいかしたいと思っている。「今度は私が支える立場になって、困っている人たちを助けたい」

10:35

浪江町の請戸小学校に多くの見学者

 震災遺構として保存されている福島県浪江町の町立請戸小学校には、朝から多くの見学者が訪れた。

 請戸地区は15メートルを超える津波に襲われ、請戸小学校は校舎2階の床上10センチほどが浸水したとされる。天井や壁ははがれ落ち、鉄筋もひしゃげている。

 地区では約150人が犠牲になったが、子どもたちは近くの高台に逃げて無事だった。

 福島市から来た堀金千紗さん(3)は母親の朋子さん(30)に「ここにいた子たちはどうなったの?」「どうしてぐしゃぐしゃになっているの?」などと質問していた。

 高校生の時に震災を経験した朋子さんは「子どもは地震が起きたら津波が来るかも、ということはもう理解しているみたい。これからも、本人が興味を持った時に、防災のことを教えていきたい」と話した。

10:30

原子力規制委員会の委員長が訓示「原子力に100%の安全はない」 

 東京電力福島第一原発の事故を受けて発足した原子力規制委員会では、山中伸介委員長が、職員ら約150人に訓示をした。「あのような事故を二度と起こさないために、原子力に100%の安全はないということを肝に銘じながら、常に科学技術に基づいた判断をしてください」と述べた。

 山中委員長は能登半島地震についても触れ、「日本では地震や津波、さまざまな自然災害は避けることができない。どのような自然災害に対しても、二度と福島第一原発のような事故を起こしてはならない」と話した。

 福島第一原子力規制事務所長の小林隆輔さんも登壇し、処理水の放出開始などこの1年間の作業の進捗(しんちょく)などについて報告した。作業員の身体汚染や汚染水の漏洩(ろうえい)などトラブルが相次いだことについて「組織体として何を行うべきか、いま一度しっかり考える必要がある」と強調した。

10:17

津波で妹を亡くした女性「私が妹に今してあげることだから」

 157人が亡くなった仙台市宮城野区蒲生地区にある「なかの伝承の丘」では、近くの誓渡寺(せいとうじ)や京都市妙心寺の僧侶が法要を開いた。かつての住民ら約30人が参加し、祈りを捧げた。

 法要に参加した宮城県塩釜市の氏家清子さん(75)は蒲生地区で、津波から車で逃げていた妹(当時57)を亡くした。当時は、津波が到達した夕方の時間帯になると、涙が止まらなかった。

 「今も3月11日の夕方は涙が出てくる。でも、私が泣いてたら、妹は安心して眠れないから、笑顔を心がけています」

 震災から13年の時が経ち、参加者は年々減っているという。それでも、氏家さんは「腰が曲がってでもくる。それが、私が妹に今してあげられることだから」。

10:03

減る月命日の墓参 大槌町の夫婦「彼岸だけにしようかと」

 岩手県大槌町の佐々木徳志さん(73)が妻と同町安渡の墓地を訪れた。震災で亡くなった母のナツさん(当時84)と親類に手を合わせた。

 ナツさんは高台に避難したが、津波に流され、大槌湾内の蓬萊島付近で見つかった。墓は、その島を望む丘にある。

 「優しくて、字も達筆で裁縫もうまい母でした」

 月命日に墓参りに訪れる人が減っている。佐々木さんも「先に死んだ父が、なぜ俺の命日には来ないんだと怒りそうなので、(墓参りは)彼岸だけにしようかと思っている」と話した。

10:00

南三陸町の海岸で行方不明者の捜索を開始

 宮城県南三陸町の泊漁港の海岸で、宮城県警南三陸署員ら10人が、行方不明者を捜索した。

 震災後に警察官になったという巡査長は、今回が2度目の捜索。沿岸部の署に配属されることが多く、地域を回る中で震災当時の住民の話を多く聞いた。

 「少しでも行方不明者の手がかりを発見できればという思い。丁寧に捜索したい」

 県によると2023年9月時点で、南三陸町では211人の行方不明者がいる。

 南三陸署の大山栄太地域課長は「捜索の環境は年々厳しくなっているが、帰りを待つ方々の気持ちは変わらないはず」と話した。

10:00

今も415人が行方不明 大槌町の海岸で捜索を開始

 岩手県大槌町吉里吉里の小久保海岸では、岩手県警釜石署と釜石海上保安部などの約40人が行方不明者の捜索を始めた。町内では今も415人が行方不明のままだ。

 今回初めて、ドローンを使った捜索を実施。釜石署の田中洋二署長は「今まで見られなかったところを、広範囲に見ることができる」と話した。

09:00

慰霊に来られない人の代わりに手を合わせ 女川

 宮城県女川町の精神保健福祉士、内海章友(あきとも)さん(49)は町の慰霊碑前で手を合わせた。慰霊に来られない人の代わりに、そして自分のために。

 公営住宅で一人暮らしをする高齢者のもとを仕事で訪れると、「つらくて慰霊には行けない」との声を多く聞く。

 内海さんのおばもその一人だ。町内で、夫やその親族を亡くし、今は隣の石巻市に住む。「代わりに手を合わせてきて」。そう言われ、毎年慰霊碑に通う。

 「スーパーができ、列車が通って、普通に暮らしているように見えても、みんなまだ傷ついている」

 慰霊は、内海さん自身の気持ちに「区切り」をつけるためでもある。震災直後、地面に横たわる遺体を横目に、両親を探しまわった。その後7年間、耳の不自由な両親と、実家の石巻市から東京都内に避難した。

 職を見つけて女川町に戻ってきたが、「ひどいことをした」「自分だけ逃げてしまった」という気持ちにさいなまれ続けた。

 今後は女川、石巻で一生を終えたいという。

 「この地に残った人が少しでも生きやすくなるよう、見届けたい。それが生きた人の務めだと思うんです」

09:00

「今も寂しいまま」 慰霊碑に記された名前を手でなで 石巻市

 「おばあさん、おじさん、また来たよ」

 宮城県石巻市の石巻南浜津波復興祈念公園で、今川栄子さん(61)と夫房一さん(66)が、慰霊碑に記された祖母の斉藤咲子さん、叔父の斉藤忠一さんの名前を手でなでた。

 おおらかでおしゃべり好きな祖母は、90歳を過ぎても社交的な人だった。北上地区にある自宅にいて、津波にのまれた。迎えに行った叔父も犠牲になった。

 今川さん夫妻は当時、雄勝地区に住んでいた。自宅は全壊したが、たまたま用事で仙台に出かけており、無事だった。

 自宅は石巻市街地の近くに再建した。散歩で祈念公園の近くを通ると、必ず慰霊碑に立ち寄る。

 「気持ちは今も寂しいまま。もっと色々なことがしたかった。一緒に旅行にも行きたかった」

08:00

「教訓を発信し続ける」 大槌町の旧役場庁舎跡地、職員と遺族が献花と祈り

 岩手県大槌町の旧役場庁舎跡地では、町の幹部職員ら約20人と遺族6人が、献花と祈りを捧げた。

 震災で、当時の加藤宏暉町長を含む職員40人が犠牲になった。屋上に避難して助かった平野公三町長は、「あの日のことを1日たりとも忘れることはない。犠牲となった尊い命を失うことになった教訓を発信し続けることが私の使命だ」と語りかけた。だが、震災の語り部育成はうまく進んでいない。

 事態を重くみた平野町長は今月9日、町主催の震災伝承講座で急きょ講話をすることにして、初めて自らの体験を町民に語った。

 そして、この日の献花後、記者団に「職員の間でさえ、当時を語り合うことはしていない。被災者の体験集を制作したい」と述べた。

08:00

「ごめんね」 南三陸町の旧防災対策庁舎を訪れた町職員の思い

 宮城県南三陸町の町職員、高橋彩さん(37)は、町内の旧防災対策庁舎を訪れた。町民に避難を呼びかけていた職員らが津波に襲われ、43人が犠牲となった場所だ。同僚で友人の遠藤未希さんも亡くなった。

 「自分ばっかり生きててもなあ。ごめんね」。そんな思いがあるのもまた事実だ。

 旧防災庁舎は、解体か保存かで意見が分かれた。県有化して判断を先送りしてきたが、震災13年を前に、町が震災遺構として保存する方針が決まった。

 高橋さんは「職場がそこにあって、思い出の場所であったことは、(旧防災庁舎の)骨組みがあっても、なくても変わらない」。

07:30

上川外相「政府の一員として復興に全力尽くす」

 「13年前のきょう、東日本大震災が発災し、多くのみなさまが亡くなられた。心からお悔やみを申し上げます」。上川陽子外相は東京・大手町での講演で東日本大震災に触れた。経団連との懇談会で、十倉雅和会長をはじめ企業トップらに経済外交や海外でのビジネスのサポート態勢の強化などを語ったが、震災から話を切り出し、「被災されたみなさまがいま、復旧に向けて、復興に向けてがんばっていらっしゃる。私も政府の一員として、全力でこれにつくしていきたい」と続けた。

06:58

仙台市の荒浜にホラ貝の音 同僚ら失い、山伏に

 190人が亡くなった仙台市若林区の荒浜で、山伏の園部浩誉さん(58)が海岸線を歩き、ホラ貝を鳴らしていた。

 保険会社に勤務し、2010…

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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