11日で東日本大震災から11年となります。震災関連死を含めた死者・行方不明者は2万2207人。失われた命を思い、残された人たちの心の痛みを想像する。そして、これからくる災害への教訓と備えを考える――。そんな1日にしたいと思います。各地の動きをタイムラインでお伝えします。
15:30
「おやじ、元気で暮らしているよ」 浪江町の霊園で祈る
福島県浪江町の請戸地区にある霊園では、午後3時半過ぎ、妻と2人で手を合わせる浦島博之さん(57)=茨城県北茨城市=の姿があった。
震災時、浦島さんは仕事で自宅を離れていた。母親は隣家の人と一緒に避難したが、父洽(ひろし)さん(当時73)は自宅にとどまり、津波にのまれた。翌日、自宅周辺を捜索しようとしたが、東京電力福島第一原発事故の影響で捜すことができなかった。
遺体が見つかったのは2011年5月11日。対面できたのは同年6月で、すでに遺骨になっていた。「本当におやじなのかな」と思ったという。
ビールとゴルフが好きだったという洽さん。よくけんかしたというが、この日は墓前に「元気で仕事して暮らしているよ。心配しないで」と報告した。
「毎年3月11日だけは請戸の住民になれる日。この風景を見ると懐かしい」
15:15
紙塔婆を海へ、福島・薄磯の122人を悼む
福島県いわき市で津波被害が最も大きかった薄磯地区。122人の犠牲者の名前が刻まれた慰霊碑と近くの修徳院で法要が営まれた。僧侶は薄磯海岸まで足を運んで紙塔婆を海に流し、犠牲者の供養をした。
14:55
妻さがす宮城・女川の男性、シャボン玉に誓う
宮城県女川町の高松康雄さん(65)は午後2時55分、慰霊碑の前でシャボン玉を吹いた。津波で行方が分からない妻の祐子さん(当時47)を探すため、2013年から海での捜索を続けている。
「祐子を忘れてないからね。まだまだ探し続けるからね」
震災後、潜水士の資格を取り、今も月に一度、捜索のために海に潜る。
「街の景色は変わったけど、海の中の景色はほとんど変わらない。11年経ったのか。そんな気がしないよ」。祐子さんを見つけるまで、捜索を続ける。
14:46
母失った遺族会会長「震災前の風景、昨日のように思い出す」
宮城県気仙沼市の波路上杉ノ下(はじかみすぎのした)の高台にある慰霊碑では、地震発生時刻の午後2時46分、遺族ら約150人がサイレンに合わせて海に向かって手をあわせ、黙禱(もくとう)した。
標高約12メートルの高台は、明治三陸大津波でも浸水しなかったため、市が住民と協議を重ねて避難場所に指定したが、東日本大震災では津波は約2メートル上まで到達。避難していた住民約60人が犠牲になった。
母と妻を失った遺族会の佐藤信行会長(71)は「震災前の風景が昨日のように思い出される。まだ17人が家族のもとに帰っていない。早く戻ってきてほしいという気持ちでいっぱいだ」と話した。
14:46
東電社長が黙禱、「社会からの信頼が大前提」と訓示
東京電力の小早川智明社長と社員らは、震災の発生時刻にあわせて福島第一原発(福島県大熊町、双葉町)で黙禱(もくとう)した。
小早川社長は社員らへの訓示で「福島の復興のためには、安全かつ着実に廃炉作業を進め、社会から信頼されることが大前提」と強調。昨年は廃棄物の収納容器からの放射性物質の漏洩(ろうえい)などトラブルが相次ぎ、信頼を失っているとして、対策を進めるよう求めた。
その後、小早川社長は報道陣の取材に応じた。来春にも始まる処理水の海洋放出について、社会でどれだけ理解が得られたかという認識を問われ、「理解の進捗(しんちょく)度を答える立場にはない」と説明。そのうえで、「安全性を理解してもらえる活動を繰り返していかなければいけないと思っている」と語った。
14:46
「祈りの丘」で黙禱 南三陸町
南三陸町震災復興祈念公園(宮城県南三陸町)内の「祈りの丘」では、午後2時46分、集まった人々が黙禱(もくとう)した。佐藤仁町長ら町職員も参加した。
近くにある自宅で黙禱した後、友人と一緒に祈りの丘に訪れた菅原秋子さんは、津波で自宅が流され、今は復興住宅で暮らす。
「近所では津波で亡くなった人が数人いるし、石巻市などに引っ越した人もいる。道路が整備されて便利になったが、人が減ってさみしくなった」
14:46
遺族ら集まり追悼式 宮城・東松島
約1100人が亡くなった宮城県東松島市は遺族らを招き、午後2時46分に合わせて追悼式を開いた。渥美巌市長は式辞で「震災を語り継ぐことが被災地自体として重要だと考えている」と述べた。
参列した会社員の本間利明さん(74)は、妻の美枝子さん(当時60)を亡くした。隣の石巻市で働いていた本間さんはかろうじて津波から逃げたが、自宅のあった浜市地区は壊滅的な被害を受けた。
この11年、仕事に打ち込むことで喪失感を紛らわしてきた面もあるという。「以前は妻の話をすると涙が出たんですが、ようやく最近になって抑えられるようになりました」と語る。
午前中は、高校入試の結果を待つ中学3年の孫と一緒に墓を訪れ、「よろしく」と伝えた。「妻は孫をとても可愛がっていて。あの頃が3歳ぐらい。もう高校生になるのか……」
式典を見送る自治体も多いなかで、市が開催したことについて「遺族としてはありがたい」といい、今後も可能なら続けて欲しいという。
14:46
内陸でも祈り「何年たっても思い寄せる」 盛岡
沿岸から離れた内陸でも被災地に思いを寄せる――。盛岡市の市施設「もりおか歴史文化館」の広場では午後2時46分に、約500人が1分間黙禱(もくとう)した。
「祈りの灯火(ともしび)」という催しで、盛岡市など8市町でつくる盛岡広域首長懇談会が主催。ボランティア活動をしている中学生や、関心がある一般の人が集まった。
灯火は震災翌年から始まり、今回で11回目だ。盛岡市の団体職員の女性(47)は、こう話す。
「沿岸から離れているが、何年たっても亡くなった方に思いを寄せることが大事だと思い、参加した」
14:46
「1・17希望の灯り」前で悼む 神戸
神戸市中央区の公園「東遊園地」では11日、阪神・淡路大震災の犠牲者を悼むガス灯「1・17希望の灯(あか)り」前で追悼行事があった。集まった市民ら約50人が、希望の灯りからとった火を「3・11 ともに歩む」の形に並べたろうそくにともし、発生時刻の午後2時46分にあわせて黙禱(もくとう)した。
今年は、1・17希望の灯りを分灯してできた岩手県陸前高田市の「3・11希望の灯り」に集まった人らとオンラインでつなぎ、陸前高田市の人たちが、震災当日のことや今の思いを語った。
同市で震災遺構のガイドをしている武蔵裕子さん(61)は「あっという間の11年。がれきはなくなり新しいまちが整いましたが、人口減少というつらい現状がある。みなさんの寄り添いを感じながら頑張っています」と話した。
追悼行事を主催したNPO法人「阪神淡路大震災1・17希望の灯り」は、震災直後から東日本の被災地と交流を続けてきた。藤本真一代表(37)は「これからも神戸ができるお手伝いをして一緒に歩んでいきたい。被災地同士の交流をつなぐ中で、生き残る知恵を今後に伝えていくことが大事」と話した。
14:46
首都圏の私鉄、一斉停止の訓練
午後2時46分、首都圏を走…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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