【震災12年の一日】「忘れない」「会いたい」 海で思い、空に願う

 東日本大震災から11日で12年になります。関連死も含め死者・行方不明者は2万2212人に上りました。大津波に奪われた多くの尊い命を悼み、東京電力福島第一原発事故の影響を今なお受ける人たちの苦悩を忘れない――。きょうをそんな日に。各地の動きをタイムラインでお伝えします。

【動画】「奇跡の1本松」に昇る太陽 東日本大震災から12年=小玉重隆、井手さゆり、福留庸友撮影

■■■3月11日■■■

20:30

佐々木朗希投手、球数制限に達し四回途中で交代

 野球のワールド・ベースボール・クラシックWBC)の日本代表「侍ジャパン」―チェコ戦で、先発した岩手県出身の佐々木朗希投手は3回3分の2、被安打2の1失点、8奪三振で交代した。

 佐々木投手は一回、味方の失策が絡んで1点を失ったが、日本が三回に3点を奪って試合をひっくり返した。

 四回、今大会の規定による1次ラウンドで投げられる球数制限の65球に達したため、2死一塁の場面で交代となった。

19:22

鎮魂と平和への祈り込め 宮城・石巻で花火打ち上げ

 宮城県石巻市の渡波地区では11日、津波犠牲者の鎮魂や平和への祈りを込めて、「311慰霊の花火」が打ち上げられた。津波で3人の子どもを失った木工作家、遠藤伸一さん(54)らが企画した。津波で流された自宅跡に、震災直後に同じ避難所に身を寄せた住民らが集まり、花火を見上げた。

 石巻市内では当時、外国語指導助手(ALT)として小中学校などで英語を教えていた米国人のテイラー・アンダーソンさん(当時24)も亡くなった。震災当時、同市のALTだった親友のキャサリン・シューさん(37)もこの日、米カリフォルニア州から慰霊に駆けつけた。「テイラーもこの花火、見てるかな」

 今は同州で心理学者として患者と向き合っている。「石巻市は私の第二の故郷。これからも関わり続けたい」と語る。同じく親友だった阿部麻衣子さん(40)は「キャサリンも米国から来てくれ、またテイラーと3人で集まれた気がする」と話した。

19:00

佐々木投手の出身地でWBCパブリックビューイング

 野球のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)のチェコ戦に先発した佐々木朗希投手の出身地・岩手県陸前高田市では、パブリックビューイングがあり、約100人が声援を送った。

 佐々木投手は小学3年生のときに陸前高田市で被災し、父親と祖父母を失った。隣の岩手県大船渡市で野球を続け、高校卒業後にプロ入りして、ふるさとを勇気づけてきた。

 地元有志でつくる「応援する会」の事務局長、村上知幸さん(52)は「市民や被災地全体が、朗希から夢や元気をもらっている」と話した。

18:15

「地震がきませんように」キャンドルに願い 福島市

 「震災を乗り越え、未来へつなぐ」「福島、復興」。福島市中心部には、震災の年に生まれた福島県内の小学6年生らが中心となってメッセージを書き込んだ約700個のキャンドルがともされた。

 会場を訪れた福島市の門馬帆花さん(7)は、両親が同県浪江町の出身。自らも「地震がきませんように」とキャンドルに書き込み、会場に飾った。

18:10

ろうそく800本、浮かび上がった「3.11つなぐ」 福島・いわき

 いわき市中心部にある平中央公園で約800個のろうそくがともされ、「3.11つなぐ」の文字が浮かび上がった。震災の翌年から続くイベント「3.11希望の灯(あか)り」で、市民の手で毎年開かれ、今年で12回目。1回目から運営にたずさわってきた太刀川敏子さん(61)らが、震災の記憶が風化しないようにと、「つなぐ」の言葉を選んだ。

 太刀川さんは「後世に記憶をつなげなければいけない。大震災自体を忘れてはいけないし、犠牲者一人ひとりを忘れてはいけない。みんなで助け合ったことも忘れない」と話した。

18:07

電子絵灯籠、全国から集まった思いともす 宮城・名取

 宮城県名取市の閖上地区にある震災メモリアル公園に、約千個の電子絵灯籠(とうろう)が並んだ。全国から寄せられた絵や文字が描かれている。「3.11 HOPE」という文字も浮かび上がった。なとり復興プロジェクトの佐々木悠輔さんは「12年たち、震災を知らない世代も増えた。当時のことを伝えてゆくことが私たちの使命」と話した。

18:00

牛乳パックの灯籠1万個 会場と気持ちを一体に 盛岡市

 盛岡市の盛岡城跡公園では牛乳パックで作った約1万個の灯籠(とうろう)が並んだ。沿岸の被災地に思いを寄せ、支援を続けていこうと、震災翌年から続いている。

 灯籠は市内の小中学校をはじめ、全国の企業や団体が手作りした。点灯式では実行委員会委員長の吉田光晴さんが「集まった灯籠はひとつずつ違うが、火をともすと一体になる。この会場でみんなの気持ちが一つになればいいと思います」とあいさつした。

 被災者を代表して岩手県野田村出身の中野佐加恵さんが「ふるさとの惨状、津波の恐怖は決して忘れられない。感謝でいっぱいです」と話した。

17:50

「大川竹あかり」 当時在校の児童108人を思う  宮城・石巻

 児童74人と教職員10人が死亡・行方不明となった旧大川小学校(宮城県石巻市)で、当時在校していた児童数と同じ108本の竹筒に明かりがともった。

 昨年始まった追悼行事「大川竹あかり」で、竹の切り出しや加工などに延べ約500人が参加した。

 小学6年生だった三男を亡くした佐藤和隆さん(56)は「あっという間の12年だった。これからも大勢の人に竹あかりに加わってもらい、大川小で起きたことを風化させないよう、語り継いでいきたい」と話した。

【動画】震災遺構大川小学校であった竹あかり=小林一茂撮影

17:35

WBCチェコ戦、岩手県出身の佐々木朗希投手が先発

 野球のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)日本代表「侍ジャパン」―チェコ戦の先発メンバーが発表され、岩手県出身の佐々木朗希投手が先発する。

 佐々木投手に先発を託した思いについて、栗山監督は試合前の会見で「これから世界の頂点をめざしていく道を歩むはずの投手。大震災のことは時間がたったから消えるものではないし、悲しい思いをした人がいる中、我々にはできないかもしれないが、一瞬でも笑ったり、元気になってもらえたりという思いはあるので、そういう日に先発するのは、野球の神様が『朗希に頑張れ』とメッセージを送っているのかなと思うので、そういう意味でも朗希らしいピッチングを期待しています」と語った。

16:30

約4千個の灯籠「3月11日、県民として胸に刻む」 宮城・石巻

 宮城県石巻市の石巻南浜津波復興祈念公園では、「がんばろう!石巻」と書かれた看板(高さ2メートル、幅11メートル)の前に、約4千個の灯籠(とうろう)が桜や輪の模様に並べられた。

 一つ一つに火をともしていた仙台市太白区の石川たまえさん(62)は、石巻市の出身。同級生が子どもを失ったり、避難所のリーダーを務めたりしているのを知り、ボランティアに加わるようになった。

 3月11日はできるだけ石巻市を訪れるようにしている。「被災者のような経験はしていないけど、県民として胸に刻むため」と話した。

16:00

岸田首相、原発の運用「安全性と地元の理解が最優先」

 岸田文雄首相は福島市で記者団の取材に応じ、国と東京電力が春から夏ごろに始めるとしている、福島第一原発の処理水の海洋放出について、「決して先送りができない課題だ。関係者の理解なしには、いかなる処分も行わないとの方針は順守する」と述べた。

 一方で、反対の姿勢を続ける地元漁協など関係者の理解をどう得ていくかについて、首相は「特定の人を関係者と考えるわけではなく、また理解の度合いについては特定の指標や数値によって一律に判断することは困難」と説明。「漁業者をはじめ地元の方々の懸念に耳を傾け、政府を挙げて丁寧な説明と意見交換を重ねていく」と語った。

 今後のエネルギー政策については、ロシアによるウクライナ侵攻で情勢が一変したとの認識を示した上で、「エネルギーの安定供給と脱炭素の両立は我が国にとって重要な国家課題だ。原発依存度を可能な限り低減しつつ、(原発について)必要な規模を持続的に活用していく」と述べた。

 原発の運用に関しては、「安全性と地元の理解が最優先であり、政府の方針について被災3県の皆様を含め、今後も丁寧な説明を続けていきたい」と語った。

15:20

立憲・泉代表「孤立や生活困難が起こらないように支援」

 立憲民主党泉健太代表が仙台市若林区震災遺構・荒浜小学校などの視察を終えて、「被災された地域での復興へのさまざまな取り組みを応援したい。新しい地で生活されている方々も、孤立や生活困難が起こらないように支援していきたい」と記者団に語った。

 政府が「春から夏」と想定している福島第一原発の処理水の放出については「少なくとも福島、宮城の漁業者からは、今のままでは放出反対という声が上がっている」と指摘。「ひとえに政府の取り組み不足、説明、理解の浸透の不足だと思う。そういった状況のまま強行するべきではない」と語り、漁業者らへの理解が得られるまで、政府に説明を尽くすことを求めた。

15:20

WBC日本代表、試合前練習を前に黙禱

 野球のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)日本代表「侍ジャパン」は東京ドームで、午後7時開始のチェコ代表戦にむけた試合前練習を行う前に黙禱(もくとう)を捧げた。

 この夜、先発する岩手県出身の佐々木朗希選手らがグラウンドに現れて帽子を胸にあてて目を閉じた。佐々木朗希選手は前日、この日の先発登板に向け、「自分の投球に集中して、その中でいいものを出して、いい結果を出せるようにしたい」と話していた。

15:16

追悼の風船、空へ 震災遺構の荒浜小学校

 仙台市若林区の震災遺構・荒浜小学校で11日、地震の発生時刻を迎えたあと、犠牲者を追悼する風船が校庭から放たれた。

15:16

 宮内庁は11日、天皇、皇后両陛下と長女愛子さまが東日本大震災の発生から12年にあたって皇居・御所で黙禱(もくとう)した、と発表した。上皇ご夫妻はお住まいの東京・元赤坂の仙洞御所で発生時刻に合わせて黙禱した。

15:00

岸田首相、追悼復興祈念式で追悼の辞 福島市

 岸田文雄首相は、福島市で開かれた「東日本大震災追悼復興祈念式」に出席。地震の発生した午後2時46分に合わせて黙禱(もくとう)した後、追悼の辞を読んだ。

 首相は「原発事故の影響により、いまだ多くの方々が、避難生活を余儀なくされている。ふるさとに帰還することのできない方々を始め、被災された全ての皆様に、改めて心からお見舞いを申し上げる」と述べた。

 原発事故からの復興に向け、「引き続き、国が前面に立って、復興の前提となる東京電力福島第一原子力発電所の安全かつ着実な廃炉とともに、帰還に向けた生活環境の整備や産業、生業の再生支援を進める」と語った。

 震災から12年が経過したことを受け、首相は「震災による大きな犠牲の下に得られた貴重な教訓を決して風化させることなく、後世に継承し、災害に強い国づくりを進めていくことは、我々の責務」と話した。

15:00

「たまには帰っておいで」亡き人へのメッセージ空へ 宮城・名取

 宮城県名取市では、伝承施設「閖上の記憶」の前で追悼のつどいが開かれた。400人近い参加者が、ハトの形をした風船に亡き人へのメッセージを書き、空へ飛ばした。

 旧閖上中で犠牲になった14人の生徒の遺族らが主催する毎年恒例の場だ。中学1年の長男を亡くした代表の丹野祐子さん(54)は風船に「たまには帰っておいで」と書いた。長女と妻、義理の両親をなくした佐々木清和さん(56)は「事故・災害を伝えるのは今いる人の役目だ」と記した。

 この日は、支援や伝承活動を通じてかかわりができた人たちが、再会する機会でもある。ボランティアをきっかけに通うようになった毛賀沢宏子さん(48)は長野県松本市から。「この街にこんな子がいた、こんな人たちが暮らしていたんだと思うと、ひとごとじゃなくなった」。丹野さんは「天国にいる子どもたちが結んでくれたすばらしい縁だと思う」と話した。

14:46

遺族代表が訴え「常に防災意識を」 東日本大震災追悼復興祈念式

 福島市のパルセいいざかで、福島県主催の東日本大震災追悼復興祈念式が開かれた。遺族代表を務めた南相馬市の宮口公一さん(65)は、津波で両親を失った。原発事故で避難を余儀なくされ、両親を捜せなかった無念さをにじませ、「まず逃げること。災害時、家族が一緒とは限らず、自分はどうすべきか、常に防災意識を持つことが大切だ」と訴えた。

14:46

亡き娘の同級生たちと過ごす日 宮城・山元

 地震が起きた時間に合わせて、防災無線からサイレンが鳴った。「この音、嫌いなんだよ」。宮城県山元町の渡辺ひろみさん(51)は、パンやお菓子をつくっていた手を休め、家族たちとリビングに座った。

 12年前の津波で長女の瑠衣さん(当時14)を亡くした。毎年3月11日には大量のパンやお菓子をつくる。この日はいちご味のチョコ、ガトーショコラ、抹茶大福などが並んだ。

 瑠衣さんの同級生たちがこの日に合わせて、家を訪ねてくれるからだ。同窓会のように盛り上がるのも恒例になり、同級生たちが自分の娘のように感じる。

 リビングの一番目立つ場所に、瑠衣さんの写真を飾っている。午後2時46分に合わせて黙禱をするわけではない。慰霊碑にも出かけない。「でも、一瞬も忘れたことはないんだよ」

14:46

東京電力社長と社員が黙禱 福島第一原発

 東京電力の小早川智明社長と社員約130人は、廃炉作業が続く福島第一原発(福島県大熊町、双葉町)で、震災が発生した午後2時46分にあわせて黙禱(もくとう)した。

 小早川社長は社員らへの訓示で「福島への責任を貫徹するには、廃炉の完遂が不可欠だ」と強調。「地域の声から懸念や疑問点の本質を知り、その立場に立って安全を大前提に丁寧に業務を行う努力が重要だ」と述べた。

 国は今春から夏ごろ、処理水の海への放出開始を見込む。国と東電が福島県漁連に2015年に文書で伝えた「関係者の理解なしに処分しない」との約束について、訓示後、報道陣に問われた小早川社長は「しっかり守りたい」と述べた。

 放出反対の県漁連の姿勢が変わらない場合、先送りするかも問われたが、小早川社長は「理解いただくことが大きなカギだ」と述べるにとどめ、先送りについて明言しなかった。

14:46

旧大川小学校で3年ぶりの慰霊祭 宮城・石巻

 児童74人と教職員10人が犠牲・行方不明になった旧大川小学校(宮城県石巻市)では、コロナ禍で中止が続いてきた慰霊祭が3年ぶりに開かれた。

 校舎の中庭付近に設けられたテントとその周辺に遺族らが集まり、サイレンを合図に祈った。お年寄りから子どもまで多くの参加者が花を手向けた。

 小学2年生だった息子を亡くした遺族会の永沼由美子会長は「震災前の子どもたちの様子や思い出を話すことも慰霊の一つ。私たちができることを大切にしていきたい」とあいさつした。

14:46

遺族代表「あの震災」語る 岩手県・釜石市の合同追悼式

 岩手県と釜石市の合同追悼式は釜石市の市民ホールで開かれ、達増拓也知事や渡辺博道復興相ら約250人が出席した。

 遺族代表の佐々木淳子さん(67)は、市内の鵜住居地区に住んでいた両親を亡くした。消防団の法被姿で祭壇の前に立ち、「今もなお疑いたくなるようなあの震災から、12年という月日が流れました」と静かに語り始めた。

 行方がわからなくなった両親を捜し、遺体安置所に通ったが確認できなかったときのことを振り返り、「見つけたいと思う一方で、見つけられなかったことで安堵(あんど)するという不思議な感覚でした」と話した。

 達増知事は「過去の災害の大きな犠牲の下で学んだ教訓を今後決して忘れることなく、次の世代に語り継ぎ、一人ひとりの大切な人におもいを寄せ、ふるさと岩手を築いていくことを誓います」と語った。

14:46

遺族会主催の慰霊祭、鎮魂の風船を空へ 宮城・気仙沼

 宮城県気仙沼市南部の波路上杉ノ下(はじかみすぎのした)地区で、遺族会が主催する慰霊祭があった。参列した約300人が鎮魂の風船を飛ばした。

 慰霊祭を開いてきた遺族会は、役員の高齢化を理由に、慰霊祭の主催は今回までと決めた。来年からは個々人での追悼とする。

 父らを亡くし、事務を担ってきた役員の小野寺敬子さん(61)は「遺族会の主催であろうとなかろうと、慰霊碑を訪れる人の気持ちは同じ。当時のことを知りたいと言ってやってくる人のために会は存続し、慰霊碑の管理、伝承はしていきたい」と話した。

 震災当時、地区の一時避難場所は明治三陸大津波(1896年)でも浸水しなかった標高約12メートルの高台に指定されていた。だが、12年前の津波は想定を上回り、頂上の約2メートル上まで浸水し、避難していた住民約60人が犠牲になった。

14:46

父を亡くした山元町長、慰霊碑を前に誓う

 宮城県山元町のJR山下駅跡の献花台では、昨春に町長になった橋元伸一さん(62)が花を手向けた。慰霊碑には父義次さん(当時77)の名が刻まれている。

 当時、駅の目と鼻の先で食料品などを扱う商店を営んでいた。大きな揺れの後、散乱した商品の片付けを続けた。約1時間後に足の悪い父と避難しようとして、津波にのまれた。

 自宅の植木などにつかまり濁流に耐えていたが、父は腕の中で息を引き取った。低体温症だったのだと思う。

 あの時、もっと早く逃げていれば。後悔は今も消えない。「逃げ遅れて津波にのまれた人間として、教訓を伝える責任がある」。手を合わせ、改めて誓った。

14:46

神戸市で黙禱「東日本にエール送り続ける場所でありたい」

 阪神・淡路大震災(1995年1月17日)の被災地からも、東日本大震災の犠牲者を悼んだ。

 神戸市中央区の公園「東遊園地」では、キャンドルを「3・11むすぶ」の文字の形に並べ、阪神大震災の犠牲者を悼むガス灯「1・17希望の灯(あか)り」から火を移した。

 午後2時46分には、1・17希望の灯りを分灯した岩手県陸前高田市の「3・11希望の灯り」とオンラインでつなぎ、ともに黙禱(もくとう)を捧げた。

 神戸の灯りを管理するNPO法人「阪神淡路大震災1・17希望の灯り」の代表、藤本真一さん(38)は「神戸は遠くても、東日本にエールを送り続ける場所でありたい」と話した。

14:46

いわきFCが黙禱「被災者の思い背負いプレー」 福島・いわき

 サッカーJ2のいわきFCは、福島県いわき市内のグラウンドで選手やスタッフ、サポーターらと黙禱(もくとう)した。

 いわきFCは東日本大震災と原発事故からの復興支援のため、2015年12月に設立。主将の山下優人選手は「この日を忘れてはいけない。僕たちが頑張ることで、(被災者が)勇気や希望を持つことができると思う。被災者の思いを背負ってプレーすることが僕らの使命」と誓った。

 12日はベガルタ仙台とアウェーで対戦する。村主博正監督は「いわきFCがなぜ誕生したかを選手たちに話してから、試合に臨ませたい」と話した。

14:46

復興祈念公園で黙禱「絶対に風化させない」 宮城・石巻

 宮城県石巻市の石巻南浜津波復興祈念公園で始まった追悼式でも、地震の発生時刻に合わせてサイレンが鳴り響き、参列者が黙禱(もくとう)した。

 あいさつに立った斎藤正美市長は「今後は地域のコミュニティー再生や被災者の心のケアなど、ソフト面での支援に力を入れる」と強調した。「絶対に風化させることなく次の世代に伝承することが私たちに与えられた責務」とし、「あらゆる災害から人々の命が守られることを切に願う」と述べた。

14:46

鎮魂、復興、平和の願い込め、風船を空へ 岩手・釜石

 津波で壊滅した岩手県釜石市鵜住居(うのすまい)町の根浜地区では、午後2時46分に鳴り始めたサイレンの音がやむと、色鮮やかな風船が空へ放たれた。

 海岸に面した旅館「宝来館」のおかみ、岩崎昭子さん(66)が企画した。4階建ての旅館は2階まで浸水し、岩崎さんは津波にのまれたが一命を取り留めた。旅館は一時、住民の避難所になった。

 会場には地域住民や外国人ら約100人が集まり、犠牲者の鎮魂だけでなく、大地震に見舞われたトルコとシリアの一日も早い復興とウクライナの平和を願い、赤や青、黄色の風船を飛ばした。

 岩手県北上市の瀬川富美子さん(67)は当時、根浜地区に家があり、近所の知人らを亡くした。「当時のことを思うと今でも涙がでる。安らかに眠ってほしい」

14:46

羽生結弦さんとともに希望を届けたい」 宮城県総合運動公園

 プロスケーターの羽生結弦さん(28)がアイスショーを開催する宮城県総合運動公園(利府町)では、献花台が設けられた。地震発生時刻のサイレンに合わせて来場者や施設の職員らが黙禱(もくとう)を捧げた。

 公園内のメインアリーナは震災当時、犠牲者の遺体安置所になった。当時、対応にあたった県スポーツ協会の平工(ひらく)覚(さとる)さん(50)は「鎮魂の日にこの場所で、羽生さんとともに希望を届けたいです」。

14:46

福岡市の繁華街の公園、街ゆく人が黙禱

 福岡市中央区天神の繁華街にある警固公園に小さな献花台が設けられ、街ゆく人が地震発生時刻に黙禱(もくとう)をささげた。

 献花台を設置した福岡市のボランティア団体「夢サークル」の代表・吉水恵介さん(66)は、震災発生後の5月に被災地に向かい、ボランティアを続けてきた。「福岡でもできることはないか」と翌2012年から毎年3月11日に、手作りの小さな献花台を公園に設置してきた。

 福岡市の河村尚彦さん(35)は、妻と長女(2)とともに手を合わせた。震災当時は大学4年生。東京の実家の最寄り駅で揺れを感じ、窓ガラスが割れるのを見た。「東京でも恐怖を感じた。東北の人はもっと怖かったと思う」。2歳の長女には「12年前にどんなことが起きたのか、災害に向けてどう備えていけばいいのかを、将来伝えていきたい」と話した。

 公園内では脱原発を求める集会も開かれ、参加した人たちも地震発生時刻に黙禱した。

13:40

慰霊碑の除幕式、復興への誓い刻む 福島・富岡

 福島県富岡町では犠牲者の慰霊碑が除幕された。再建したJR富岡駅に近く、海を見渡せる高台にある。震災と東京電力福島第一原発事故の経験を後世に伝え、復興への誓いを刻んでいる。

 慰霊碑は二つの御影石を組み合わせ、高さ約3メートル、幅約5メートル。海上にあったが、地震で倒壊した町の名所「ろうそく岩」を模した。

 区長会副会長の坂本栄司さん(68)は「建立は住民の要望で、12年たって一つの区切りになったと思う。津波だけなら、住民が減らず早く復興もできただろうに」と話した。

 津波では町民24人が亡くなった。原発事故で全町避難を強いられた影響で、455人(3月1日現在)が震災関連死と認定されている。

13:30

犠牲になった職員ら40人の合同追悼式 岩手・大槌

 岩手県大槌町の旧役場庁舎跡地では、犠牲になった町長や職員ら40人の合同追悼式があった。平野公三町長ら町幹部と、震災で犠牲になった職員の遺族ら計約30人が参加した。

 平野町長は「津波が来るまで一緒にいた、みなさん一人ひとりの顔を鮮明に思い出します」と話し始め、計1200億円が投じられた復興のハード事業が今月で完了することを報告。「みなさんの遺志を受け継いだ後輩たちは粉骨砕身、復興事業に取り組んできた」と語りかけた。

 また、震災の経験と教訓を風化させず、継承することが責務だとし、当時、町災害対策本部が機能せず、被害が拡大したことに言及し、「尊い命を失うこととなった教訓を、次の世代へつないでいくことが私の使命」と結んだ。

12:20

三陸鉄道に復興願う大漁旗 岩手・宮古

 「復興のシンボル」である三陸鉄道に向かって、沿道から大漁旗を振る催し「復興フラッグ」が、岩手県宮古市で行われた。震災の記憶を風化させず、地域の復興を願うもので、市内外からランナーや小中学生ら25人が参加した。

 発案者の長柴翔さん(35)は市教育委員会の職員。「震災を知らない子どもたちも多い。授業で習うだけではなく、地域の中でも震災と向き合ってほしい」と考え、企画した。

 参加者は旗を振ったあと、海沿いの道を6キロほど走った。佐々木杏彩(あい)さん(12)は震災の約半年前に生まれ、当時のことを知らない。そのため「知ってみたいと思い」参加した。姉の結彩(ゆい)さん(15)は「走ってみんなを勇気づけたいと思った」と話した。

12:20

子どもたちに伝える「命守るために」 宮城・女川

 宮城県女川町の港近くの「いのちの広場」では、伝承活動に取り組む田村孝行さん(62)、弘美さん(60)夫妻が、横浜市の小学6年生24人に自らの命を守るための備えなどについて語った。

 夫妻の長男健太さん(当時25)は七十七銀行女川支店の行員だった。強い揺れの後、支店長の指示で屋上に避難したものの、高さ約20メートルの津波に襲われ、他の行員とともに犠牲になった。

 歩いて数分の高台には、他の金融機関の従業員が避難して無事だったのに、なぜ――。「助かるはずの命だった」との思いがぬぐえない。

 孝行さんはこうした経緯を振り返り、「具合が悪くても、『練習休みたい』って言えない時もあると思う。でも、自分の命を守るために、意見をしっかり言える力、知識を身につけて、災害の時にどうするかを考えて話し合ってほしい」と語りかけた。

12:00

津波で亡くなった男性の実家で鎮魂の神楽 岩手・大船渡

 岩手県大船渡市三陸町の越喜来地区では、津波で亡くなった漁業、岩城史朗さん(当時45)の実家に遺族や地域の人々が集まり、鎮魂の神楽が舞われた。

 史朗さんは少年野球の監督を務める地域のリーダーだった。震災当日は、消防団員として住民を高台に避難させた後、水門を閉めに行き、津波にのまれた。

 妻の裕子さん(58)は「息子の成長を見つめながら、時折、夫の存在を思い出す」。長男の圭祐さん(27)は大学の野球部を経て、今も社会人クラブで野球を続ける。「父の影響が大きかった」と語る。

 兄の和哉さん(66)は盛岡市内で、史朗さんの漁船と同じ名前の居酒屋「福寿丸」を営む。「12年が過ぎたが、俺の中での悲しい気持ちは何も変わっていねえ」と話した。

11:49

「心が張り裂けそう」 宮城・石巻

 宮城県石巻市に住む岡田美幸さん(35)は11日、長女(7)と長男(2)を連れて旧大川小学校を訪れ、手を合わせた。震災当時、福島県内に住んでいたが、原発事故で栃木に避難した。「これからどうなっちゃうのかという漠然とした不安、絶望感があった」。結婚後、石巻市に引っ越してきた。

 友人のなかには大川小で子どもを失った親もいる。自分の子どもにも震災を知ってほしいと、毎年訪れるという。「もし自分の子どもが、と思うと心が張り裂けそう」

11:30

岸田首相、子育て支援施設を視察 福島・相馬

 岸田文雄首相が福島県相馬市の子育て支援施設「LVMH子どもアート・メゾン」に到着。施設を視察し、子育て世代の人や子どもとの対話に参加した。

 子どもから「なぜ総理大臣をめざしたのですか」と問われた首相は、「世の中でこうあって欲しいとか、これはやめてほしいと思うことを先頭に立って実現をしようと政治家をめざした」と説明したうえで、「政治家になってみると、やりたいと思うことを実現するにはやはり力をつけなきゃいけない。総理大臣は一応、日本の社会の中で一番権限の大きい人なのでめざした」と語った。

 幼い頃に好きだった本についても問われ、首相は「王子と乞食(こじき)」(マーク・トウェイン著)、「三銃士」(アレクサンドル・デュマ・ペール著)、「小公子」(バーネット著)をあげ、「好きな本をたくさん読んでください」と語りかけた。

11:00

「あの怖さは昨日のことのように覚えている」 福島・いわき

 福島県いわき市久之浜の稲荷神社にある「追悼伝承之碑」。市内で語り部をする石川弘子さん(64)は、その隣の石碑に刻まれた犠牲者の名前に指を触れ、手を合わせた。

 津波は自宅の手前で止まったが、がれきに阻まれ、腰が悪い義母を連れて逃げられなかった。周りで火災が起こる中、自宅で一晩を過ごした。「爆発があるたびにサッシがガタガタ揺れて。あの怖さは12年たっても、昨日のことのように覚えています」

 息子2人に野球を教えてくれた男性は、行方不明のままだ。避難後、飼い犬を助けに戻っていた。「生きていたらWBCの話をしてたんだろうなって思う」

11:00

法要にかつての住民30人が参加 仙台市宮城野区

 仙台市宮城野区の蒲生地区にある沿岸部では、近くの誓渡寺や京都市妙心寺などが十三回忌の法要を開いた。かつての住民たち約30人が参加した。

 慰霊碑がある「なかの伝承の丘」には、かつて中野小学校があった。下山正夫さん(78)は当時、同校に避難して無事だった。だが、自宅にいた父の次郎さん(当時91)を津波で失い、「つらく悲しく、苦しかった」と振り返る。

 青空のもとで始まった法要では、例年は風で消えてしまうロウソクの火が約30分の間、ともり続けた。下山さんは「十三回忌の節目で、亡くなった方と今日ここに集まった方が、一緒にともし続けたのかな」と話した。

10:30

市民団体が廃炉訴え 鹿児島・川内原発1、2号機のゲート前

 鹿児島県薩摩川内市九州電力川内原発1、2号機のゲート前で、市民団体「川内原発30キロ圏住民ネットワーク」のメンバーが廃炉を訴える横断幕を掲げ、九電の池辺和弘社長宛ての要請書を読み上げた。

 九電は昨年10月、間もなく運転40年を迎える川内原発について、運転期間の20年延長を原子力規制委員会に申請した。岸田内閣は「原則40年、最長60年」と定めていた原発の運転期間を、60年を超えても可能とする方針を打ち出している。

 住民ネットワークの高木章次代表は取材に「福島原発事故以降、最初に再稼働されたのは川内原発。それが20年延長に向けて動いている。福島原発事故は収束もしていないし、多くの人が苦しんでいる」と述べ、「老朽化した川内原発は直ちに停止させるべきだ」と話した。

10:25

岸田首相が福島に到着 追悼復興祈念式に出席へ

 岸田文雄首相がJR福島駅に到着。11日午後に福島市で開かれる東日本大震災追悼復興祈念式に出席する。首相は式典出席に先立ち、相馬市の子育て支援施設を視察する。

10:00

彫刻「水をくみに」除幕 宮城・気仙沼の復興祈念公園

 がれきの中、水の入ったペットボトルを手に歩く子どもをモチーフにした彫刻「水をくみに」の除幕が、宮城県気仙沼市陣山の復興祈念公園であった。

 小学5年生、4年生、4歳の男の子3人が、力を合わせて避難所に水を運ぶ様子を表現。制作した秋田公立美術大の皆川嘉博教授(54)は、実際に小学5年生に4リットルの水を詰めたペットボトルを持ってもらい、力の入り具合を確かめた。

 「全国どこでも起きる災害での支え合い、助け合いの大切さをイメージした」

 公園は2年前に開園。市民のワーキングチームの検討をもとに、震災の記憶を「形」で伝承する彫刻3体が置かれ、今回で4体目となる。

10:00

大阪府松原市から約160枚の黄色いハンカチ 福島・いわき

 福島県いわき市久之浜町であった追悼慰霊行事の会場に、大阪府松原市から約160枚の黄色いハンカチが届き、飾られた。

 この日、松原市立松原第五中学校の山田和美教諭(57)や米田美波教諭(27)らが届けた。同中のほか、近くの松原第二中の生徒、部活で縁のある小中高生や大学生らの応援メッセージが書かれている。

 山田さんの長女と米田さんは阪神・淡路大震災があった1995年に生まれ、中学の卒業式の日に東日本大震災が起きた。山田さんは「人ごとと思えず忘れられない」と、2021年からハンカチを届けている。今回も、前夜から車を走らせてきたという。

 山田さんは「来るたびに少しずつ復興してきているのが分かる。地元の方々が元気で、温かく迎えてくれるので、こちらが元気をもらっているくらい」。米田さんは「大阪に帰って、被災地の様子を生徒たちに伝えたい」と話した。

09:41

災害公営住宅に手作りの祭壇 宮城・閖上

 11日、宮城県名取市閖上地区の災害公営住宅・閖上中央第一団地の集会場には手作りの祭壇がつくられ、住民らが祈りをささげていた。全国各地から送られたメッセージや折り紙とともに、ロシアの侵攻を受けるウクライナや、地震の被害で苦しむトルコ、シリアの国旗も飾られた。集会場に追悼の場がつくられたのは3回目。コロナ禍で公の追悼式などがなくなり、追悼の場を望む住民らが自主的に始めた。今年初めて、災害公営住宅入居が始まった2017年からの歩みを示す写真も飾られた。

 主催した一般社団法人ふらむ名取の代表理事、格井直光さん(64)は「12年前の東日本大震災で突然、平和な日常が奪われた。平和な生活を奪ってしまうという意味では、戦争も災害も同じ。ウクライナやトルコ、シリアにも早く平和が戻るよう、閖上から祈りをささげたい」と話した。

09:30

防潮堤を彩るタイルアート 岩手・大船渡

 岩手県大船渡市大船渡町の茶屋前地区では11日午前、高さ7・5メートルの防潮堤を、青を基調にしたタイルアートで彩る催しが始まった。波や渦巻きの模様の周りにウミネコや魚を描いた作品を貼り付け、犠牲者への追悼の祈りを込めるとともに、海や津波について知ってもらう狙いだ。

 災害をテーマにした芸術活動に取り組む、大船渡市の合同会社「みんなのしるし」が企画。京都府在住の美術家の井上信太さん(55)が監修し、地元の小中高校生らとともに約1年かけ、1千個以上の作品を作った。現在約200メートルあるアートは今後635メートルまで延長し、5月まで公開するという。

09:30

空にはためく黄色いハンカチ 宮城・山元町

 「ガンバレ東北」「咲かせよう 心に花を!」

 宮城県山元町の海岸近くにある慰霊塔のそばでは、全国から届いたメッセージ入りの黄色いハンカチが青空にはためいていた。

 高倉健さん主演の映画「幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ」にちなんで、震災後に町内で黄色いハンカチを掲げたのが始まり。上を向いて生きていけるように、そして亡くなった人が空から見守ってくれるように、との願いだ。

 中心となったのは、慰霊塔近くの震災遺構・中浜小学校などで活動する「やまもと語りべの会」。会長の渡辺修次さん(71)は当時、町内の別の中学で校長を務めていて、4人の生徒が犠牲になった。

 「語り部をするたび、『生きたい』と思っていた4人の子たちを思い出し、彼らが心の中で生き返る。10年が過ぎた際に節目などと言われたが、私にとっては一日ずつの積み重ね。今日が4383日目、節目はありません」

09:25

「あの日のことを考え、苦しい」 宮城・女川町役場の慰霊碑

 宮城県女川町役場にある慰霊碑前でしゃがみ込む男性(60)がいた。「手を合わせると、つらいんです」

 慰霊碑に刻まれているのは、おいの名だ。大学卒業後に町内の銀行で勤務。震災時には屋上に避難したが津波にのまれた。当時23歳。今も行方不明のままだ。

 「息子のように、弟のように育ててきました」。おいの紹介で作った銀行のカードが届いたのは、震災当日の金曜の朝だった。メールで「届いたよ」と伝えようと思ったが、「どうせ会えるか」と送らずにいた。

 男性は毎月、この慰霊碑を訪れる。「これからって時に、本当に悔しい。ふとした時にあの日のことを考えて、苦しいんです」。12年経っても、津波の映像を見ることができない。

09:25

「残された者として頑張って生きないと」 宮城・東松島

 宮城県東松島市の野蒜(のびる)地区にある慰霊碑には、朝から多くの人が献花に訪れ、手を合わせた。

 浅野茂美さん(58)はあの日、勤め先から帰宅直後、津波に襲われた。急いで自宅2階に上がり、難を逃れたが、車で送ってくれた同僚と近くに住む両親は命を落とした。

 「わたしだけ生き残ってしまった」とずっと考えてきたが、時の経過とともに少しずつ心の持ちようが変わってきた。

 「今では両親が『しっかり生きるように』と、後押ししてくれているように感じている。残された者として、頑張って生きないと」

09:10

震災後初めて献花台設置 福島第一原発がある福島・双葉町

 東京電力福島第一原発が立地する福島県双葉町で、町産業交流センターに震災後初めて献花台が設けられ、町民らが花を手向けた。

 同町では津波で21人が犠牲になったほか、避難中や長期にわたる避難生活で体調を崩すなどして亡くなった「災害関連死」が158人にのぼる。

 この日最初に献花したのは、震災前は沿岸部の浜野地区に住んでいた志賀隆貞さん(73)。津波で亡くなった親戚や近所の人の懐かしい顔がいまも浮かぶという。「見守っていてくれ」との思いとともに花を手向け、手を合わせた。

 昨年10月、JR双葉駅前に新設された町営住宅に1人で帰還を果たした。だが震災当時の町の人口7140人に比べ、いまの居住者はわずか約60人。町民は43都道府県で避難生活を送る。志賀さんは「寂しい。もう12年なのに、復興に時間がかかりすぎだ」。

 同町は原発事故で全町避難を強いられ、昨年8月に中心部で避難指示が解除されて約11年半ぶりに人が住めるようになった。

09:00

モニュメントの除幕式 流出した戦没者慰霊碑も再建 宮城・南三陸

 東日本大震災で犠牲になった宮城県南三陸町歌津地区の人々を追悼するモニュメントの除幕式が地元の商店街であり、遺族ら約30人が参加した。

 南三陸町では震災で600人以上が亡くなった。佐藤仁町長は「全てを失ってから一日も早い復興へと歩み続けてきた。今年度、ハード面の復興を終えることができ感慨深い」とあいさつ。その後、参加者らが花を捧げた。

 震災で流失していた地区の戦没者慰霊碑もあわせて再建された。

09:00

水産市場に被災3県の特設ブース 東京・足立

 東京都内唯一の水産物専門の中央卸売市場という「足立市場」(東京都足立区)は11日、コロナ禍で中断していた一般客への市場開放を3年ぶりに開催した。3・11での復活となり、都は各仲卸に被災地の水産物を仕入れて復興を応援するよう要請した。

 仲卸「山善」の山川浩之社長(55)は、岩手県の魚介を中心になるべく多く仕入れるようにしたという。「被災地の海産物は他では代わりにならない品ばかり。特に大船渡(岩手)の赤崎のカキはうちの主力の一つ。他の産地とはまるでモノが違う」と話した。

 市場内では岩手、宮城、福島の被災3県の特設ブースが設置され、各県の東京事務所の職員らが観光地などをアピールした。宮城県職員の鈴木駿さん(25)は「観光PRのほか、復興しつつある姿をお見せしたい」と話した。

08:49

「命だけは…伝えていかなきゃ」 東松島市・野蒜海岸

 東日本大震災で1100人以上が亡くなった宮城県東松島市。11日朝、野蒜(のびる)海岸では市内に住む会社員の阿部光浩さん(45)、真依さん(9)、真子さん(6)親子が手を合わせ、波と遊んだ。毎年この日には娘2人を海に連れくるという。

 光浩さんは「ここに生まれて育つ上ではまた起きる可能性がある。そのときは確実に逃げて命だけは助かって欲しいので、伝えていかなきゃ。身内が亡くなってまだ行方不明の方もたくさんいる。私たちの今後も含めて安らかでありますように」と願いを込めた。

07:55

「何年経っても思い出す」 石巻市の旧大川小

【動画】東日本大震災12年、震災遺構・大川小学校で鎮魂の祈り=小林一茂撮影

 震災遺構となっている宮城県石巻市の旧大川小学校で11日朝、近所に住む佐藤綾子さん(手前)が手を合わせた。子どもは卒業生。友人は子どもを失ったという。佐藤さんも、当時勤めていた介護施設が海沿いにあり、同僚を津波で失った。休みだった佐藤さんは助かった。

 「この日だけは来なくっちゃと思って。何年経ってもあの日のことを思い出す」

07:51

空にいる3人の子を思って 仙台市・荒浜

 11日朝、仙台市若林区・荒浜の慰霊の塔の前で、津波で当時3歳、4歳、6歳の子どもを亡くした女性が手を合わせていた。震災当時、産婦人科で看護師として働いていた女性は出産に立ち会っていた。子どもたちは近所の人と市立荒浜小学校(当時)へ避難したが、校庭で津波にのまれ亡くなった。

 現在は災害派遣の看護師として働きながら、毎月11日に慰霊のため荒浜を訪れ手を合わせる。「救える命は絶対に救いたい」と話した。

07:48

「ずっと忘れられない」 岩手・大槌町

 11日、岩手県遠野市に住む高校3年生の男性(18)が、家族6人で大槌町に墓参りに訪れた。12年前、同町に住んでいた親戚6人が津波の犠牲になった。

 「高校卒業と大学進学の報告をしました。当時、6歳で年長だった。12年、あっという間です。亡くなった人のことを思い、生きてきました。震災のことは、ずっと忘れられないです」

07:33

18歳で亡くなった孫を悼む 岩手・大船渡

 11日、岩手県大船渡市で、菅野明美さん(69)が孫の船本裕介さん(当時18)の墓参りに訪れた。裕介さんが津波に流されて亡くなったのは、高校を卒業し、まもなく漁師として働くことが決まっていた矢先のこと。「『働いたお金は一番最初におばあちゃんにあげる』と言うほどの家族思いだった」。静かにその死を悼んでいた。

07:00

「本当に可哀想でね」 宮城・山元町の自動車学校跡地

 教習生や従業員らが犠牲になった宮城県山元町の常磐山元自動車学校の跡地では、石材会社従業員の樋口功さん(73)=同県丸森町=が慰霊碑に手を合わせた。

 同校では避難が遅れたことで多くの犠牲を生んだ。「本当に可哀想でね」。防潮堤は高くなったものの、「もっと大きい津波が来るかもしれない。自然には勝てない」と思う。

 当時は大量の墓石の修理や墓の建て直しが必要となり、後に仲間と山元町内で新たな石材会社を立ち上げた。そばを通るたびに、今でも車を止めて碑に向かうようにしている。

06:26

「生きていたら今ごろ中学生かな、高校生かな」 岩手・大槌町

 岩手県大槌町で11日、日の出とともに夫婦で墓参りに訪れた女性(72)。12年前の津波で、33歳の娘と2人の孫が帰らぬ人となった。「痛かったね。つらかったね」と何度も墓をさすり、手を合わせた。

 発生してから4、5年は喪失感があり、津波が憎く、海が嫌いになった時もあったという。「孫が生きていたら今頃、中学生かな。高校生かなって想像してしまう。でも帰ってこない。二度と津波は起きてほしくないです」

06:10

春から高校生「自分たちが考えないと」 宮城・深沼海岸

 多くの犠牲者が出た仙台市若林区荒浜の深沼海岸では日の出の時刻に、海に向かって手を合わせる中学生3人がいた。前日が卒業式で、4月から高校に進学する。その前に、震災のことを改めて考えようと、誘いあって訪れた。

 佐藤佑作さん(15)は震災当時3歳で、青森県にいた。その時の記憶はもちろんない。仙台市に引っ越してからも、小学生のころは震災や津波は、歴史の出来事のように遠くに感じていた。ただ、中学の授業で震災についてより詳しく学び、「仙台に住む自分たちが考えないと」と気持ちが変わった。

 海に向かって手を合わせながら考えていたのは、もし、いま大地震が起きたら、ということ。「10メートルの津波が来たら、逃げられないかもしれない。怖い」。高校でも震災や防災について学んでいきたいという。

06:04

「震災当初は海を見られなかった」 宮城・東松島市

 震災で住民の約3%にあたる約1100人が犠牲になった宮城県東松島市。津波が襲った野蒜(のびる)海岸には、近くに住む会社員の小田嶋敦さん(61)が、昇る朝日を撮影に訪れた。「ここ数年の3月11日で一番いい日の出ですね。震災当初は海を見つめることはできなかった」と涙を浮かべた。

 家族は無事だったが、津波で自宅を失い、知人が犠牲になった。震災から3年を経て地元に自宅を再建。「故郷の風景を失ったのは悔しくて仕方なかった。自然災害にはあらがえないが、この経験をしっかり受け止め、次の世代に伝えていかないといけない」

06:00

「ここに来て、どれほど悲惨かわかった」 宮城・南三陸町

 宮城県南三陸町の震災復興祈念公園にある「祈りの丘」では日の出前、東京都世田谷区の会社員松本淳也さん(53)が、一緒に訪れた息子3人に語りかけていた。「このあたりは震災前、住宅街だったんだよ」

 松本さんは震災1週間後に同県多賀城市内でボランティアに携わり、その1カ月後、南三陸町ががれきに覆われている光景を目にした。

 当時、長男は5歳で、次男は3歳、三男はまだ生まれていなかった。松本さんは「実際に被災地を見せて震災のことを伝えようと連れてきました」。

 山の間から朝日が昇ると、家族は静かに黙禱(もくとう)。長男の高校生、伽羅(きゃら)さん(17)は「ここに来て、周りに何もないのを見て、津波がどれほど悲惨な出来事だったのかわかった」と話した。

05:57

亡き友人の十三回忌に 「これからも見守って」

 11日朝、宮城県名取市閖上地区の名取川沿いの防波堤で、日の出を見る髙橋理恵子さん。震災で、宮城県東松島市に住む高校時代の同級生を亡くし、十三回忌にあたるこの日、慰霊の意味をこめ、朝日を見に来たという。

 「こんなに静かできれいな海なのに、あのときはなんで猛威をふるったんでしょうね。(震災を)忘れてはいけないけれど、やっぱりここでは、海と一緒にこれからも生きてゆくしかないのかな」とつぶやいた。水平線からのぼる太陽を見て、「これからも私たちのこと、見守ってください」と祈ったという。

05:57

日が昇る海で「娘に伝える」 仙台市の荒浜

 11日朝、仙台市若林区の荒浜で、岩谷亮さん(34)と娘の美桜さん(6)が日が昇る海を見つめていた。娘に震災のことを伝えようと、初めて一緒に訪れた。

05:50

「まだ大勢帰っていない」 宮城・気仙沼市

 宮城県気仙沼市の小泉海岸。県内最大の高さ14・7メートルの防潮堤の上に立ち、地元の市議、及川善賢(よしたか)さん(60)は朝日に向かって静かに手を合わせた。

 地域で40人が犠牲になり、うち18人の行方がまだわからないという。自身もおばを亡くした。「知り合いがまだ、大勢帰ってない。その人たちを思いながら、毎年祈る」

 周辺の家々は破壊され、草地が広がる。ただ、浜辺は最近、サーファーでにぎわうようになった。

 「せっかくの海、せっかくの防潮堤。どう生かしていくか、いつも考える。あれから12年、そろそろ夢を語ってもいい時期なんじゃないか」

05:45

「無念さ、言葉で表現できない」 石巻市の旧大川小校舎

 児童・教職員計84人が死亡・行方不明になった宮城県石巻市の旧大川小校舎では、神奈川県平塚市にある宗信寺の住職、岡貞潤さん(57)が献花台でお経を唱えた。

 震災直後の3月20日に宮城県女川町に物資を届けに来たのをはじめ、これまで50回以上被災地で支援を続けてきた。旧校舎を前に、「子どもたちの未来が絶たれた無念さは言葉で表現できない。少しだけ先にいられる私たちが鮮明に記憶に残し、生きることが大切だ」と語った。

 この日は、当時一緒に仮設住宅を回ってセラピー犬として活躍した、15歳の雄のラブラドル犬Borddy(ボーディ)も同行。3年前に引退したものの、いまだに「会いたい」と言う被災者がいるという。愛犬とともに女川町に向かった。

■■■3月10日■■■

【動画】釜石市の海岸で地元の警察、消防、海上保安庁らが捜索活動を行った=藤原伸雄撮影

18:00

エールと鎮魂の思い込め、桜色にライトアップ

 被災地へのエールと震災で亡くなった人への鎮魂の思いを込め、大阪府豊中市の市立文化芸術センターが、桜色にライトアップされた。震災直後から東北の被災地支援を続けてきた市社会福祉協議会が企画した。期間は12日の夜まで。

 豊中市は、岩手県の大槌町や陸前高田市などと災害時の相互応援協定を締結している。また、豊中市内にある府立桜塚高校は被災地支援のボランティアをきっかけに、2012年に岩手県立大槌高校と、両校の校章が桜をモチーフにしていることから「さくら協定」を結び、交流を続けている。そこで今回、桜色にライトアップすることにした。

 10日にあった点灯式には、市社協職員や桜塚高校の生徒のほか、大槌高校の生徒たちもオンライン会議システム「Zoom」で参加し、全員で黙禱(もくとう)した。

 大槌高校の生徒たちが復興の歩みなどを紹介し、桜塚高校の生徒の1人が「修学旅行で大槌高校を訪ねて、またいつか関われたらと思っていたので、もう一度再会できてよかったです」と話した後、一緒にカウントダウンして点灯した。

17:00

羽生結弦さんが鎮魂の舞「満天の星は希望の光に」

 フィギュアスケートで五輪2連覇を果たし、プロとして活躍する羽生結弦さん(28)が、地元の宮城・セキスイハイムスーパーアリーナでアイスショー「羽生結弦 notte stellata(ノッテ・ステラータ)」を開催し、鎮魂の舞を披露した。

 12年前に羽生さん自身も仙台市内で被災。避難所に向かう途中に夜空を見上げた時に、「満天の星」が見えたという。羽生さんは「ノッテ・ステラータは『星降る夜』という意味です。満天の星は希望の光になりました。一つ一つのプログラムが輝く星になるように滑ります」と語った。

 ショーには羽生さんと親交のある国内外の著名なスケーターのほか、体操個人総合で五輪2連覇を果たした内村航平さんも出演した。

17:00

「ずっと一緒だよ」「会いたい」 600個の灯籠にあかり

 東日本大震災の被災集落跡にある宮城県岩沼市の公園で、市の追悼行事「希望の灯火(あかり)」があった。亡き人を導くように並べられた約600個の灯籠(とうろう)に、元住民や遺族らが次々と火をともした。

 灯籠には「ずっと一緒だよ」「ただ愛しい 会いたい」などの言葉が書かれている。小林治身さん(63)は両親の名を記した。あの日、地震の後で家に立ち寄ったとき、もっと強く「逃げろ」と言えばよかったと今も悔やむ。「まだ12年、という感じです。遺族にとって復興は遠い」

 森博さん(73)は、被災集落から集団移転をした住民を代表してあいさつ。「亡くなった仲間にとっても、忘れられるのは悲しいこと。後世に語り継いでゆくのが私たちの使命」などと話した。

【動画】「希望の灯火」灯籠に火をともし、亡くなった人たちを追悼した=吉田耕一郎撮影

16:15

経産相が職員に訓示 処理水放出「理解醸成に取り組んで」

 西村康稔経済産業相は職員を前に東日本大震災から12年を迎えるにあたっての訓示をした。経産省は東京電力とともに、福島第一原発の廃炉や処理水の放出などを担っている。西村氏は「廃炉の実現に向けて処理水の処分は避けられない。引き続き、理解醸成、安全確保、風評対策に積極的に取り組んで参りたい」と述べた。

 経産省と東電は、処理水の放出の時期を今年の「春から夏」と想定している。一方、漁業者らとは「関係者の理解なしには処分しない」との約束をしている。事故から12年になるが、地元の漁業者を中心に放出への反発は根強い。2月末に西村氏自ら福島県いわき市を訪れた際も、地元の漁業者らは反対姿勢を示していた。

16:00

津波被害からよみがえったピアノ 「鎮魂と希望」のコンサート

 海のそばにあり、12年前に被災した仙台空港(宮城県名取市と岩沼市)のロビーで、津波からよみがえったピアノによるコンサートが開かれた。

 県内の音楽講師、桜井由美さん(58)が所有するグランドピアノは震災で海水をかぶり、がれきの中に置かれていたのを見いだされて、修復された。重機で引き上げられた時の傷痕が所々残るまま。故・西城秀樹さんの曲「傷だらけのローラ」から、「ローラ」と名付けられている。

 「復興空港ピアノ」としてこの時期、仙台空港に置かれるようになって3年目。震災に思いをはせようと、多くの人が弾きに来る。感想ノートには「あの日を一緒にのりこえたんだね。元気もらえました」「ローラの音色は傷を負った方々の心の奥深い所まで届き、いやしてくれる響きでした」などと書き込まれている。

 「鎮魂と希望」と題した10日のコンサートで復興支援曲「花は咲く」などを弾いた大野紘平さん(23)は「自分の音の一つでも東北の皆さんに聞いていただき、希望につながれば」と話した。

14:46

行方不明者の捜索を終え、黙禱

 岩手県釜石市で10日朝から行方不明者の捜索をしていた釜石海上保安部、釜石警察署、釜石大槌地区消防本部の捜索隊は、午後2時半に活動を終了。地震発生時刻の午後2時46分に黙禱(もくとう)した。海保の潜水士らは、船の上で黙禱を捧げた。

14:42

慰霊の塔で祈り 「全力で生きないと」

 仙台市若林区の沿岸部、荒浜地区にある慰霊の塔の前で、櫻井龍輝さん(20)が祈りを捧げた。友人に会いに東京から仙台市を訪れた。3月11日を前に一度、被災地を訪れてみようと思い立ったという。

 「慰霊碑に刻まれた一人一人の名前や年齢を見て胸が苦しくなりました。自分よりも若くして亡くなった人もいました。生きている自分が全力で生きていかないといけない。人生と真剣に向き合っていきたいです」

14:10

原発事故、国の責任認めず 仙台高裁判決

 東京電力福島第一原発事故をめぐり、避難指示の対象外だった福島県いわき市から自主避難をするなどした住民が、国と東電に約13億6千万円の損害賠償を求めた集団訴訟で、仙台高裁(小林久起裁判長)は、国の責任を認めない判決を言い渡した。

 午後2時10分ごろ、高裁から出てきた原告側の弁護人が「国の責任を認めない不当判決」と書かれた旗を掲げると、支援者らから「えー」などと落胆の声が上がった。

 原告の根本一市さん(79)は「原発を造る時から国は関わったのだから、事故の責任は東電だけに負わすものではないはず。(判決が)今後、原発を動かすことや、新たに造ることにつながるのではないか。それが怖い」と話した。

 先行した同種訴訟では、最高裁が昨年6月、国の責任を否定する判決を出している。今回はこの最高裁判決後、下級審では初めての判決だった。

13:30

仏教と神道 宗教を超え、住民らと合同慰霊

 東日本大震災から11日で12年となるのを前に、仙台市若林区の沿岸部で仏教や神道などの宗教者が住民らと行脚する合同慰霊があった。

 黒色の法衣姿の僧侶ら約10人が一列になって近くの寺を出発。田畑を抜け、海岸近くにある「東日本大震災慰霊の塔」に向かって歩いた。塔では、白色の作務衣姿の神職も加わり、全員で黙禱(もくとう)を捧げた。

 市によると、慰霊碑のある荒浜地区では、当時約2200人が暮らしていたが、約190人が津波の犠牲になった。今は「災害危険区域」に指定され、人は暮らせない。

 参加した同区三本塚の菊地貞一郎さん(72)は友人を津波で失った。「十三回忌で一区切りではあるんだけども、あの日をだんだん忘れる人も出てくるので、亡くなった人たちを思い出しながら歩いた」と話した。

12:15

福島で原発回帰反対の署名活動

 福島市のJR福島駅近くで、岸田政権による「原発回帰」の撤回を求める署名活動が始まった。福島県労働組合総連合(県労連)などでつくる市民団体「ふくしま復興共同センター」の約15人が、原発推進は「福島県民の苦しみを踏みにじるもので許されない」などと訴えた。

 マイクを握って訴えた二本松市の井上裕子さん(67)は、東京電力福島第一原発事故から12年がたつ今も県民の避難者が約2万7千人に上ることなどを挙げ、「政府の政策転換は、福島の事故を終わったかのようにするもので、あり得ない。新たな怒りがわく」と話した。

10:00

原子力規制委員長が訓示

 東京電力福島第一原発の事故を受けて2012年に発足した原子力規制委員会では、山中伸介委員長が職員ら約50人を前に訓示した。「福島を決して忘れない。私のこの強い気持ちは一時たりとも揺らいだことはありません。原子力規制委員会、原子力規制庁は、事故の教訓と反省を決して忘れてはいけません」と語りかけた。

 規制委は、原発の60年超運転を容認する新たな規制制度の方針を決めた。「規制に直接関わる皆さんには、科学的、技術的に判断し原子力の安全性向上に励んでいただきたい。あのような事故を二度と起こさないために、原子力に100%の安全はないということを肝に銘じながら、常に科学技術に基づいた判断をしてください」と話した。

 また、震災当時、協力企業の従業員として福島第一原発で被災し、19年に規制庁に入庁して福島第一原子力規制事務所で働く高松宏志さん(50)が録画で登場し、処理水放出設備の設置工事の検査を進めていることなど現地の状況を報告。「設置工事が無事に完了しておしまい、ということではない。今後の運用もしっかり検査で見ていきたい」と話した。

09:55

岩手の釜石沿岸で行方不明者の捜索

 岩手県釜石市の沿岸で、行方不明者の捜索が始まった。釜石海上保安部、釜石警察署、釜石大槌地区消防本部の計約70人が参加。警察官や消防署員が浜辺の捜索にあたり、海保の潜水士8人は水温8度の海中に潜った。

 岩手県警に昨年入った坂本愛里さん(19)は、初めて捜索に参加した。大きな被害を受けた宮古市の出身で、親戚2人を亡くした。被災者の心のケアをする警察官にあこがれ、この仕事を選んだ。

 「ご遺族には12年という年数は関係なく、家族が戻ってくるのを待っている。小さな手がかりでも届けられるように全力を尽くします」と話した。

 岩手県内では、1110人が行方不明のままだ。

06:16

「学び、伝えていきたい」 卒業式の前、中学生たちが海で

 仙台市若林区の荒浜で10日早朝、卒業式の前に思い出を作ろうと、中学生たちが集まっていた。毎年この時期には、授業で震災のことを学んでいる。「僕らにとって荒浜は身近で大切な場所。過去に何があったのか、これからも学んで伝えていきたい」

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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