愛知県豊田市にある挙母(ころも)城(桜城)跡の発掘調査で本丸の一部とみられる遺構が見つかった。近くを流れる矢作川の度重なる洪水により、二の丸のみで本丸の工事は着手されなかったと市史に記され、本丸は存在しないと考えられてきた。今回はそれを覆す発見だという。
桜城は、江戸初期の1614年から3度、現在の豊田市元城町周辺に築かれた。2度目までは実質的に陣屋だった。だが3度目は、初代挙母藩主の内藤政苗(まさみつ)(1741~1802)が、幕府から4千両を与えられたことを受けて計画された本格的城郭だったとされる。
築城中に何度も洪水の被害を受け、本丸に着手しないまま2代藩主の学文(さとふみ)(1751~94)が工事を中止。高台になっている豊田市小坂本町周辺の童子山に1782年、新たな挙母城(七州(しちしゅう)城)が築かれ、桜城は廃城となったと、これまでは考えられてきた。
二の丸の遺構の一部は、挙母…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル