あのころセルシーがあった ニュータウンの象徴、栄枯盛衰の半世紀

 「いらっしゃいませ!」。威勢の良い声が店内に響く。

 11月の週末、千里中央駅(大阪府豊中市)近くの焼き鳥店「たきち」は、家族連れでほぼ満席だった。カウンターで接客する店主の小塩美博(よしひろ)さん(73)は昔を思い返していた。「セルシーのころは毎日こんな感じやったなぁ」

 セルシーとは今から半世紀ほど前、1972年に千里中央駅前に完成した千里レジャーセンターの愛称だ。大阪万博から2年後、日本の高度成長期の最終盤の時期と重なる。

 ローマのコロッセオを模した豪華なデザインで、千里ニュータウンの中核施設。地上6階、地下1階の延べ約4万5千平方メートルの建物は、2~4階の計162レーンのボウリング場を目玉に、関西初のスカッシュコート、屋外プール、映画館など、あらゆるレジャーがそろっていた。広場があり、地下が飲食店街だった。

ニュータウンの象徴として誕生したレジャー施設「セルシー」。名物の屋外ステージは、新人歌手の登竜門と言われました。栄枯盛衰を焼き鳥店の店主の視線から描きます。

 隣の吹田市出身の小塩さんは…

この記事は有料記事です。残り1939文字有料会員になると続きをお読みいただけます。

※無料期間中に解約した場合、料金はかかりません

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

Japonologie:
Leave a Comment