1984年4月、筆者はアサヒグラフの取材で日本一人口が少ない自治体となった伊豆諸島、東京都青ケ島村を訪れた。そして2022年8月、現在でも人口最少の絶海の孤島を再訪した。
「あっ、これは僕と母ですよ!」。筆者が持参した38年前の取材時に撮った親子の写真を見せると荒井智史さん(41)は驚いた。
筆者も驚いた。84年の訪問時は船の欠航が続き、1週間近く島に滞在した。時間をもてあまして、島の人を片っ端から撮影していた。今回の取材で「ところで、この写真、どなたか分かりますか?」と聞いた相手が偶然にも本人だったのだ。
苦難の歴史を忘れない太鼓の音
38年ぶりに訪れた青ケ島。海路は八丈島からの連絡船だけなのは変わらないが、船の総トン数は10倍になり、船酔いした人がバケツリレーをする光景はなくなった。約200メートル上の断崖絶壁上の道路に空中ケーブルで荷揚げしていたが、この火山島の外輪山を貫くトンネルの開通で、波止場から自動車で村まで行けるようになった。
荒井さんは家業である自動車整備工場、レンタカー、運送業、食料品店などの仕事をする傍ら、太鼓をたたいている。その名も「青ケ島還住(かんじゅう)太鼓」だ。
1978年、荒井さんと父親と当時の村長が始めた。
火山島の青ケ島はたびたび噴火に見舞われてきた。1785年の大噴火で200人あまりが八丈島に脱出したが、100人以上が島で亡くなり青ケ島は無人島になった。
島に戻る試みは幾度となく失敗し、多くの犠牲者を出した。そしてようやく半世紀後に、「還住」した苦難の歴史を忘れないように、祭事などで演奏される。
荒井さんは中学までは島で育った。千葉の高校を出て、和太鼓奏者として東京で活動していたが、11年前に島に戻った。
今は島おこしNPOの代表を務め、島を盛り上げる若手リーダーの一人だ。「まず島の人に青ケ島の良さを再発見してほしい。昔から変わらない青ケ島の伝統、文化、共同体を次の世代に伝えていきたい」と話す。
赤ちゃんが青ケ島PR大使になった
38年前、母に抱かれていた女の子の赤ちゃん。再訪すると、青ケ島PR大使と呼ばれるYouTuberになっていた。
佐々木加絵さん(38)は島を出て神奈川の高校を卒業後、美容やアパレルの仕事をしていた。民宿の開業準備をしていた父が亡くなり、母を手伝うために19年に帰島した。グラフィックデザイナーでもあり、島のパンフレットなどのデザインもしている。
「島では夜、することがない」と昨年、動画配信を始めた。20年に島に光回線が開通したことも大きな理由だ。島や加絵さんの日常を撮影して流しただけなのに、「青ケ島ちゃんねる」(https://www.youtube.com/c/aogashimachannel
動画を見て、ひかれて島に来た人も多い。「行政など大きな仕組みでは大変。私個人でやるのもいいかな」。島外の人にとっては非日常の「日常」をゆるゆると発信している。
中学校をなくすな、亡き父の思いを胸に
ただ、荒井さんや佐々木さんが巣立った村立青ケ島中は昨年度の在籍が2人の3年生だけ。この2人が卒業すると、1年間は生徒がゼロになってしまう事態が見込まれた。その場合、休校しなければならない。
海水を地熱蒸気で熱して作る特産品「ひんぎゃの塩」を製造する青ケ島製塩事業所の経営者、山田アリサさん(60)は「中学校をなくしてはいけない」と立ち上がった。1年間の「島留学」を全国に呼びかけたのだ。
その結果、今年度は3人が中学校の生徒になった。
このうち2人は山田さん宅にホームステイする。
もう1人は中学3年生の戸来(へらい)仁響(さねみち)さんの一家。父母と妹2人の一家5人で、青森県六戸町から一家で移住してきた。家族で役場職員住宅に住んでいる。
さらに、来年度も2人の入学が決まった。島留学は山田さんの個人的な取り組みだ。なぜ、そこまでしてやるのか。
「昔、父が村長選挙に出るとき、中学生だった私に言ったんです。『アリサ、このままだと島は学校がなくなる。学校がなくなるということは、村がなくなるっていうことなんだ』って」。山田さんは父の言葉が、いま実感として胸にしみている。
山田さんの亡き父である常道さんは、筆者が38年前に訪れたときの村長だった。ここでもまた、過去の縁と結びついた。
還住の精神を胸に島に住み続ける
島の最も大きい課題はマンパワー不足だ。人を呼び寄せようにも、住宅を建てることが大変だ。立川佳夫村長は「資材の海上輸送コストなどで、家1軒建てるのに1億円近くかかるんですよ」と実態を語る。
昔に比べれば格段に便利になったとはいえ、島の生活になじめずに帰ってしまう人も多い。「時々村の職員がね、八丈島の方をボーッと見ていることがあるんですよ」と村長は心配そうだ。村役場はいつも職員を募集している。
島の人口を維持するには。これには色々な考え方がある。荒井さんは「じっくりと態勢を整えたい」。佐々木さんは「スピード感を大事にしたい」。山田さんは「短期間でもいいから、島に来る人を少しでも増やしたい」。
「その多様性がいいんです」と荒井さん。山田さんは「この島に50年かけて戻ってきた人たちがいる。私たちがそれを必死になってつないでいかないといけない」。
人手、雇用、住宅、お金――。島に足りないものは多い。だが、島出身者が共有してきた「還住」の歴史がある限り、この絶海の孤島・青ケ島に人々は住み続けるだろう。(勝又ひろし)
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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