JR宝塚線(福知山線)脱線事故で両親を一度に亡くした男性は2児の父になった。事故から16年を迎えた25日、現場からの映像を家族で一緒に見つめ、子どもたちが会ったことがない「じいじ」と「ばあば」のことをしっかり伝えた。
「じいじ、ばあばが亡くなったところがここ。ここでお祈りする」。広告会社員の小杉謙太郎さん(37)は東京の自宅で、兵庫県尼崎市の事故現場からの中継映像をパソコン画面に映しながら、長男の咲太郎(さくたろう)ちゃん(5)と次男の春太郎(はるたろう)ちゃん(3)に語りかけた。
JR西日本の社長が読み上げた「お詫(わ)びと追悼のことば」に「事故」という言葉が出ると、子どもたちが反応した。「事故? 事故だって」「何の事故?」
小杉さんと妻の真裕(まゆ)さん(37)はゆっくり説明した。「じいじ、ばあばが死んじゃった電車の事故ね」。咲太郎ちゃんはつぶやいた。「電車のせいでなったんだ」。そして家族4人は2人の遺影が立つ仏壇に手を合わせた。「じいじ、ばあば、元気でいますよ」
小杉さんは2005年4月25日、テレビ局役員だった父繁さん(当時57歳)と出版社勤務の母靖子さん(同59歳)を亡くした。
当時、東京都内の大学4年生だった小杉さん。一緒に暮らしていた父は仕事の都合で兵庫県川西市の自宅に戻っており、そして母と乗った電車が脱線した。
現地に向かい、犠牲者が安置されていた体育館で遺体の顔写真を確認し続けた。現実感がなかった。一夜明けて両親の遺体と対面した。「ものすごく泣いた。『本当だった』って」
2週間後、小杉さんは父のネクタイをして広告会社の最終面接に臨み、内定を得た。同じマスコミ業界で社内外に父を知る人が多く、頑張らなきゃ、と自分にプレッシャーをかけた。
父の同僚や母の知人が自分を支えてくれた。ただ、「家族がいない不安感、孤独感、『1人だな』っていうのはあった気がする」。
真裕さんと2012年に結婚し、2男を授かった。やっと家族ができた。
咲太郎ちゃんが生まれた日。うれしさと同時に大切なものをなくす怖さが思わず口に出た。「子を失う悲しみというのは親を失った僕と違うんだろうな」。子どもを亡くした遺族の気持ちを思った。
子どもたちを育てながらキャリアを重ねた。時折、人生の歩み方を父母に聞きたいと思った。だが、2人に聞くことはできない。
「コミュニケーションの中で生きていく仕事っていいな」。父の背中を追って入った世界。年を経るごとに、「かなわんな」と思う。600通近い年賀状の送り先を引き継ぎ、自分の名前で出してきた。
母は伝えたいことがあると手紙を書く人だった。昨年暮れ、大学生の時にもらった手紙が出てきた。
「その時々をうんと楽しみ、また少々悩み、自分で自分を強く育てていって下さい。自分の行動は全て自分に色々な形で戻って来ますヨ」。時を超えたお説教がうれしかった。
2人の息子には、両親の面影が重なる。「会わせたい」という気持ちが募る。
「じいじとばあば、なんでいないの」。1年ほど前、咲太郎ちゃんが聞いてきた。親族から事故のことを聞いて、「電車が倒れちゃったの?」とも。
悲しい記憶を積極的に伝えるべきか。迷いもあったが、この日、初めて本格的に事故について話した。
幼い子どもたちに具体的な話をするのはまだ先かもしれない。それでも、成長するにつれ、じいじ、ばあばが亡くなったことと事故とがつながっていくはずだ。「ちゃんと知りたくなる時が来たら、答えてあげたいと思う」(石田貴子)
■車内からも祈り「安全を大事…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル