はじまりは1台との出会い 被爆ピアノと全国めぐる広島の調律師

 四半世紀前の1台のピアノとの出会いが、調律師の人生を変えた。広島に投下された原爆で傷ついた古びたピアノを託され、音が出るよう修理したのが転機になった。「被爆ピアノを通して平和の種まきを」と全国各地で巡演している。

 広島平和記念公園広島市中区)の一角。一家全滅や身元不明など約7万柱の犠牲者の遺骨が納められている「原爆供養塔」前の広場で8月4日、厳かなピアノの音が響いた。原爆犠牲者を追悼し、平和を祈願するある集会で、矢川光則さん(71)=同市安佐南区=が設営や音響の調整などを一手に担った。

 「原爆で命を奪われ、生きたくても生きられなかった方々にも音色を届けたいと願っています」

酒に酔った父が語る「原爆」を避け

 矢川さんは被爆2世。消防士だった父親は1945年8月6日、爆心地から約800メートルの消防署で被爆。大勢の同僚を失い、戦後は消防の仕事を離れた。幼少期、父はよく酒に酔うと「なぜ自分は生き残ったのか」と口にした。酒臭い父を想起させる原爆の話にずっと興味が持てず、平和運動にも関心がなかった。

 ピアノの調律師として長年働き、40代半ばから修理した中古ピアノを障害者施設などに寄贈する活動を始めた。

 そんな取り組みを知った広島の被爆者団体から98年、1台のピアノを託された。

 爆心地から約3キロの民家で被爆し、爆風で砕けたガラスの破片で傷ついた古びたピアノで、しばらくそのままにしていた。

■被爆アオギリの前で決心…

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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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