運ばれてきた人は、だれも生きて退院することはなかった。
東京都内に暮らす仲井間千代さん(96)はいまでも、体を膨らませ、栄養失調で死んでいった日本兵たちの姿が忘れられない。
もともと服を脱がせて寝かせていたが、亡くなればすぐに素っ裸にした。死者が使っていた毛布や軍服を川で洗い、また使った。パラオ本島(バベルタオブ島)の密林の中にあった野戦病院に動員されていたときのことだ。
上空には頻繁に米軍機が飛んでいた。煙を出せないため火葬することもできず、少し離れた場所に4人がかりで担架に乗せて遺体を運んだ。小さなほこらがあるところで、僧侶でもある日本兵が手首をのこぎりで切り落とし、夜に焼いて骨にした。遺体は近くに埋められていた。
戦前、沖縄出身の仲井間さん一家はパラオ・コロール島に移住した。父が貸家業を営み、生活は豊かだった。1941年春、仲井間さんは新設されたパラオ高等女学校の1期生となった。
その年の12月、アジア・太平洋戦争が始まる。真珠湾攻撃に沸き、シンガポールの陥落をちょうちん行列で祝った。
しかし、だんだん戦況は悪化していく。勉強より、防空壕(ごう)掘り、さびた弾磨きなどに動員させられるようになった。
食べ物がない中、生きるために、家族のために、17歳の少女が強いられたこととは。女学生の戦場体験をお伝えします。
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル