栃木県栃木市出身の画家清水登之(とし)は志願して従軍し、何度も戦地を踏んだ。そして、最後は、戦争によって失意の底に落とされた。その目は何をとらえたのか。戦争に翻弄(ほんろう)された生涯をたどる。
従軍画家の「絶筆」、戦死の愛息像
23歳で戦死した愛息を描いた絵がある。
名は育夫。海軍の制服姿で、丸めがねの奥から穏やかなまなざしを向けている。父親と並んだ出征前の写真がもとになった。
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父親は栃木県栃木市出身の画家、清水登之。敗戦間近の1945年6月、東京から疎開していた栃木市大塚町の生家で長男戦死の報を受け取った。それから一心に画布に向かった。
長女の中野冨美子さん(88)は当時を思い出す。
「毎日、毎日、掃除に行くと言っては墓に行き、土をたたいて『育夫、育夫』と泣いていました。絵の具や画布は残り少なくなっていましたが、墓に行かない時は兄を描いていました」
「育夫像」は複数残っている。群馬県桐生市の大川美術館が4点を所蔵し、中野さんも2点の画を大切にしまっている。
「育夫像」に衝撃を受けた画家がいる。
千葉県いすみ市の辻耕さん(54)。2003年に放映されたNHKの戦争画特集で知った。まだ残っていた登之の生家に置かれた「育夫像」と中野さんの話に引き込まれた。
母親が中国東北部(旧満州)育ちの辻さんは、旧日本兵の証言を記録する活動に取り組んだことがある。イラク戦争開戦も重なり、戦時下に描かれた戦争画に関心を深めていた。
「戦死した息子を描いた画家は、あまり例がないのではないか。自分はそんな強い気持ちで絵を描いたことがない。どんな心情だったのか」
「育夫像」を再現することで、…
2種類
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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