宮城県栗原市の後藤信一さん(107)は第2次世界大戦中、3万人もの日本兵が命を落としたとされるインパール作戦を、命からがら生き延びた。その体験をつぶさに記した1冊のノートがある。息子の公佐(こうすけ)さん(83)が語る。
オヤジ(信一)がひょっこり戻ってきたのは、終戦翌年の田植えの頃でした。戦地に赴き3年。何の音信もなくもうダメかと思っていたので、家族は大騒ぎでした。7歳の私(公佐)はそのやせた姿に「誰、この人?」と思ったものです。栄養失調でそのまま3カ月入院しました。
以来、オヤジは百姓ひと筋。誰からも好かれるおおらかな性格です。戦争の話を私たちにすることもほとんどない。ただ、近所の同年代の人と茶飲み話になると、「中国はこうだった」「ビルマ(ミャンマー)はもっとひどかった」と、戦地の思い出で盛り上がっていました。
体も弱くなってきた20年ほど前、貴重な体験を残したらどうだと、ノートを渡したんです。ふだん文章など書かないオヤジが合間合間に書き始め、3、4年かかったでしょうか。
鉛筆で1行おきにびっしり埋めてある。私が知らなかったことばかりで、読んで驚きました。
地名や現地の様子を細かく覚えている。極限状態を生き抜いたことを、つぶさに記しています。
「迫撃砲は弾の後ろに羽根がついていて、ピュウピュウと気持ち悪い音をたてて飛んでくる。直径1尺位の木枝がバリバリ折れた。死ぬか生きるかの戦いで、頭の毛がまっすぐ立った」
「(出征した)昭和18年8月以来、同じ服の着通しで、ひざ下まであった半ズボンは大きいパンツの様になって、腹巻きはシラミが真っ白に行列している」
「(退却する)山道は、足の踏み場も無いくらい両側に白骨が続く。鼻や口にハエが真っ黒になって、ブンブンしている。この坂を越そうと、頑張って来たのだろうと思う」……。
実はオヤジの父親・後藤房之助は1902年、旧陸軍の訓練で210人中199人が遭難死した八甲田山雪中行軍の生還者。青森市には銅像も立っています。ノートを見ると、オヤジは出征時、房之助のことを思い、「俺だって、どんな事があっても帰ってくるんだと、肝に堅く銘じていた」そうです。
コロナ禍、10カ月ぶりに会ったオヤジは敬礼した
文章はパソコンで起こし、冊子を25部作って親族一同に配りました。
オヤジは百歳を前にして体が…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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