「長時間の会議」「大人数の会議」。そう聞くと、一般的にマイナスなものを連想しますが、そのイメージを払拭する取り組みを続ける企業があります。歴史をひもときながら、コロナ下の「良い会議」とはどのようなものかを考えます。専門家に聞くと、今は会議のあり方を再考する絶好のタイミングなんだとか。
日本ではいつごろから会議が開かれるようになったのか。「専門家の中でも意見が分かれますが、古代では会議は開かれていても議論をしている形跡があまりないようです」。そう話すのは、立命館大学の美川圭教授(日本中世史)だ。詳しい会議のやり方の記録が残るのは、平安時代になってからだという。そして、その時からすでに会議には様々な「ルール」が存在していたようだ。
平安時代にもあった会議のルール
美川教授によると、平安時代に入ると「陣定(じんのさだめ)」という会議が9世紀後半ごろに始まったとみられ、身分の高い貴族たちが集められていた。この会議では、全員が発言を求められていたようで、萎縮しないよう発言の順番は身分の低い人から。それぞれの発言をまとめた議事録が作られ、天皇に提出されていたという。
全員が発言せねばならず、しかも記録が残る――。すごいプレッシャーに違いない。会議に呼ばれていたのは15~20人ほどというが、実際に来ていたのは5~10人ほど。半数近くは、発言を求められるのを恐れて「サボっていたのでは」と美川教授はみる。
その理由は、貴族たちが残した日記にある。「あいつは無能である」「あいつはわかっていない」「こんなことで間違えている」などと、会議の発言についての辛辣(しんらつ)な言葉が並んでいるという。
マナー違反は「失(しつ)なり!」
会議には様々なルールがあったとみられ、ルールをまとめたカンニングペーパーを持参する人までいた。服装を間違えた貴族には「失(しつ)なり!(なんと失礼な)」と厳しい言葉も。現代で言えば、スーツで行かないといけない会議に普段着でひょっこり現れるような粗相にあたるかもしれない。
平安時代後期ごろに院政が敷かれ、権力が肥大化すると、会議が形骸化していったという。会議自体が開かれずに、大事なことが決まることも多々あったという。その後に会議が開かれることもあったが、権力の暴走を止める機能を果たさないケースもあった。
「平安時代だけでも会議のありようは様々な変化があった。このやり方が正解というのは難しいのでは」。美川教授はそう語る。
長いときは午前9時半から午後4時まで 異例の会議形式で新商品続々
さて、時代はくだって現代の話。「人数が多い」「時間が長い」と一般的には敬遠されがちなやり方に、価値を見いだす会社もあるようだ。
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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