76回目の終戦の日の15日、東京・日本武道館で開かれた政府主催の戦没者追悼式。新型コロナウイルスの影響で、式典の規模は昨年よりさらに縮小されたが、参列した戦没者遺族は、平和への強い思いを胸に不戦の誓いを新たにした。
参加ためらう気持ちも
追悼式に参列した遺族で最年長の長屋昭次さん(94)は、北海道からただ一人の参加となった。新型コロナの感染リスクを考えれば、参列をためらう気持ちもあったが、「生きている人にできることは慰霊しかない」と、会場から遠く離れた網走市から今年も参列した。コロナ禍以前は例年、北海道から数十人が式典に参列していたという。「さびしい限り。たくさんの人が参列を希望しているので、コロナが済んだら参列させていただきたい」
8歳年上の兄、保さんが亡くなったのは終戦後の45年12月、中国の入院先でのことだ。享年26、肺結核だった。弟思いの兄は生前、「復員したらいい学校に入れてやる」と言ってくれた。だが、武器や食糧を輸送する輜重(しちょう)兵として戦地に赴き、帰らなかった。
長屋さん自身も陸軍の少年飛行兵として従軍した。1945年8月15日の終戦は、朝鮮半島で迎えたという。同じ少年飛行兵には、特攻隊員としてまだ10代で戦死した人たちもいた。「特攻で亡くなった人たちを思えば、私たちに何ができるか」。参列を続けるのは、若くして戦地で命を落とした仲間への慰霊の思いもある。
戦後世代は総人口の8割を超えた。長屋さんはいまの政治家も含め、「どうか戦争だけは絶対に避ける考え方を持っていただきたい」と語りかける。(久永隆一)
帰らなかった杜氏の父
自分たちの「仲間」をつくりたくない――。式典で追悼の辞を述べた兵庫県丹波市の柿原啓志(ひろし)さん(85)は、そんな思いで式に臨んだ。
農家だった父・輝治(てるじ)さんは1944年4月に召集された。同年10月、中国・湖南省長沙市の野戦病院で、35歳の若さで亡くなった。記録には赤痢とあった。
召集がかかったとき、啓志さんは8歳で、父親に関する記憶はほとんどない。父が酒造りをする杜氏(とうじ)として働きに出かけ、家に帰ってきた時にバス停まで迎えにいくと、子どもたちを喜ばせようとお土産に獅子頭などをくれたことは覚えている。
友達が遊ぶのを横目に、父を失った自分は農作業をしなければならず、「なぜ自分だけが」と思うこともあった。20年ほど前、遺族会のグループで中国・湖南省を訪れた。うっそうと広がる森や野原を見て「父はこんなところに来たのか」と涙があふれた。弟は28歳で亡くなったが、母はなんとか元気で暮らしていること伝えた。一緒に訪れた人たちも泣いているのを見て、自分たち「遺族」をつくってはいけないと思った。
現在、兵庫県遺族会の会長を務めているが、「何の遺族会ですか」と尋ねられることもあるという。「高齢化は仕方ないにしても、戦争や戦没者への意識が薄くなっていってはいけない。次の代につないでいくことも訴えたい」。風化への危機感を募らせている。(石川友恵)
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル