ジョン・カビラさんが父朝清さんに聞く沖縄・放送史 配信で語り継ぐ

 日本復帰前の沖縄にできた公共放送で初代会長を務めた川平朝清(かびらちょうせい)さん(94)が半生を振り返る3年前のラジオ番組が、インターネット配信で今も聴かれている。戦後の沖縄、米国、東京で放送に携わった歩みや故郷への思いを、長男ジョン・カビラさん(63)との対談の形で語り尽くした。配信で時間や地域を超えて聴けるようになったことで、親子の番組は復帰50年の沖縄の歴史や現在を知る入り口としても貴重な記録になっている。

日本語放送局の初代アナウンサー

 番組は、東京のFM局J―WAVEが2019年6月23日、沖縄慰霊の日に放送した「STORIES OF OKINAWA」。50分ほどの番組は「親子の対話で沖縄の戦後史や放送史を描く試みを成功させた」と評価され、第57回ギャラクシー賞ラジオ部門の大賞に輝いた。20年秋には、未放送部分を含む計2時間44分に上る音源を16本に分けて順次配信した。

 1927年、朝清さんは日本の植民地だった台湾で生まれた。敗戦翌年の46年冬、19歳のときに家族で沖縄に引き揚げた。船からは、激しい戦いで緑が消え、むき出しの地面が目立つ島が見えた。母が口にした一言がいまも耳に残る。

 「戦(いくさ)に敗れて、山河も残らなかったわねぇ」

 いとこに案内してもらった首里城周辺も破壊し尽くされていた。琉球王国時代の王の墓「玉陵(たまうどぅん)」では石造りの墓室が開け放たれ、遺骨も目にしたという。

 「これが本当に父母たちが話していた緑豊かな首里なのか。戦争は王様の墓も暴く。惨禍は文化や歴史を根こそぎ破壊するんだなぁ。そう思いました」

 50年、沖縄に放送が必要だと訴えた兄朝申(ちょうしん)さんの誘いで、米軍が管理する日本語放送局「琉球の声」(AKAR)の初代アナウンサーに。53年には米軍の奨学金でミシガン州に留学し、放送法制や経営を本格的に学んだ。

 放送は何のためかを説く基礎講義では「Public(公共)の関心や便益、福祉のため」との話に強い衝撃を受けた。妻ワンダリーさんと出会ったのもそのころだ。

 沖縄に戻って琉球放送(RBC)のテレビ開局を経験し、67年には公共放送の沖縄放送協会(OHK)の初代会長に。72年の復帰後は東京に移り、OHKを統合したNHKで国際展開に携わった。

「太平洋の魚に向かって…隔世の感」

 J―WAVEコンテンツ事業部の高知尾(たかちお)綾子専任部長(56)は4年ほど前に初めて朝清さんに会った。88年の開局から同局でDJを務めるジョンさんとは長い付き合いだが、親子が何げない会話を穏やかな敬語で交わす姿に「何て美しいんだろう」と心を震わせ、復帰前後の沖縄の情景が目に浮かぶような朝清さんの鮮明な語り口にも耳を奪われた。親子が沖縄を語る番組ができないかと考え、1年ほど後に「STORIES OF OKINAWA」の放送が実現した。

 ジョンさんは父の体験を体系的に聴くのは初めてだった。番組を「まさに宝のような時間でした」と振り返る。

 「父は植民地時代の台湾、敵…

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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