「謀略の果てに」 上
90年前の1932年3月、中国東北部に「満州国」が建国された。
独立国家とは名ばかりで、実権を握っていたのは日本の関東軍だった。この前年、関東軍は南満州鉄道の線路を爆破する自作自演の謀略(柳条湖事件)を起こし、軍事行動を開始。やがて満州全土を占領した。
この地の利権をめぐり、にらみあったのが北のソ連だった。だが、米英との太平洋戦争が1941年12月に始まり、戦況が悪化すると、ソ連に対する日本の作戦は「攻め」から「守り」に転じていく。
満州国は45年8月、ソ連に攻め込まれ、日本の敗戦とともに13年余りで滅亡した。
日本はこの間、ソ連の侵攻にいかに備えていたのか。
戦後の1960年代初め、軍事史研究が専門の米国人歴史家、故アルビン・クックス博士が、当時の日本軍将校ら36人にインタビューをしている。ときは米ソ冷戦のまっただ中。ソ連と戦った日本側から教訓を得る狙いがあったとされる。
その証言録音がアメリカの南カリフォルニア大学東アジア図書館に残っていた。
朝日新聞は、南カリフォルニア大学東アジア図書館の協力で、元将校らへのインタビュー音源を分析し、その内容をプレミアムA「砂上の国家 満州のスパイ戦」として特集しています。連載第2章「謀略の果てに」では、ソ連の侵攻を受けた満州国の最期を、将校たちの証言から振り返ります。全3回。
「陣地だけはえらいあるけれども、中身は兵隊がおらん。こういうような状態に昭和20(1945)年になったらなってしまった。陣地はあるけれども、鎧(よろい)がない」
戦争末期、関東軍の作戦主任参謀を務めた草地貞吾(ていご)の目には、部隊がそう映っていた。クックス博士のインタビューでそのように振り返っている。
満州を舞台に、ソ連と激しい諜報(ちょうほう)戦を繰り広げた日本だが、最終的に、シベリアへの「北進」ではなく、インドシナ半島などへの「南進」を選び、太平洋戦争に突入した。
1942年6月のミッドウェー海戦で大敗すると、43年2月にはガダルカナル島から撤退。戦況の悪化にともない、満州にいた関東軍の主力は43年後半から次々と南方へ引き抜かれていった。
草地は言う。
「南の方あたりに出る部隊はいろいろ戦をするんだから、人でも指揮官でも資材でも馬でも大砲でも、なるべくあるうちの良いものを出すように、私どもは気をつけてやりました」
「その意味で悪い方がむしろ残った。二流のものを満州に残して、一流のものを出すと」
攻めから守りへ、180度転換
日本が南方に注力するなか、この頃、満州ではソ連と紛争を起こすような行動は強くいさめられたという。
「絶対、ソ軍との間に事を起こしてはならないという、強い命令といいますか、指令といいますか、これが関東軍にはなんべんも来たわけです」
日本の敗色が濃くなった1944年9月、大本営は関東軍に対し、ある作戦計画を示した。
大本営にいた元戦争指導班長は、ソ連の侵攻に対し、三つの作戦案が検討されたと打ち明けました。関東軍が選んだのは……。記事後半で紹介します。
もしソ連が侵攻してきたら…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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