チーフ作家から「お金は後からついてくる」デビュー作で実感(西日本新聞)

放送作家・海老原靖芳さん聞き書き連載(28)

 いよいよ本番が迫ってきました。1982年3月30日放映の日本テレビ「ゲバゲバ90分!+30」。新人の私を含む放送作家たちは、前年の9月からチーフ作家の河野洋さんの事務所に集まってコントのネタを出し合いました。

【写真】笑いあり、涙ありの半生を振り返る海老原靖芳さん

 木枯らしが吹いた晩秋、東京が白い雪に染まった新年、日差しにぬくもりを感じた春。充実していた時期でした。新人放送作家の私はコピーライターで日銭を稼いでいましたが、「テレビの世界で働きたい」との熱い思いを胸にせっせと書いていました。

 才能も経験も豊富な喰始(たべはじめ)さんが書いたのはスーパーマンの15分コントでした。日本の一般家庭の設定で、西田敏行扮(ふん)するお父さんがスーパーマン役。一家そろって食事の最中に「ニューヨークで電車が転覆しそうだ」「ビルが崩壊しそう」とSOSの電話を受け、あの「S」が胸に書かれたスーツで東京から飛んでいくストーリー。「あなたインターポールからよ」「今度はCIAから」って電話を受けるたび、泣きそうな顔をして家の窓から飛び立つ西田は印象的でした。

 15分のコントはもう1本必要でしたが、誰も書きたがりません。斎藤太朗ディレクターのチェックが厳しいからです。経験を積みたい私は「ここだ!」と直感し、手を挙げました。書いたのは、月見うどんを食べようとするとオオカミ男に変身する男などが登場する怪物家族のコント。

 初心者の私は、河野さんや喰さんのアドバイスで手直し。日本テレビを辞めてフリーとなり、当時ハワイに住んでいた番組総指揮の井原高忠さんにも台本を郵送し、チェックを受けました。「井原チェック」がハワイから届いていたのを覚えています。お酒や遊びのことで盛り上がる会議ですが、コントに取り組む姿勢は別。私の台本をチェックするときは、みな背筋を伸ばし、一字一字見入っていました。情熱を感じ、オンとオフを使い分ける、この空気が好きでした。

 放映当日は喰さんの自宅に集まりました。大画面テレビで展開されるギャグ。ビールを飲みながら笑っていた記憶があります。番組の終わりのエンドロールには「海老原靖芳」の名前もありました。

 翌月20万円が振り込まれました。放送作家として初めて手にしたギャラです。「大丈夫。ちゃんとやったら、お金は後からついてくるから」。河野さんのささやきは本当でした。

(聞き手は西日本新聞・山上武雄)

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 海老原靖芳(えびはら・やすよし) 1953年1月生まれ。「ドリフ大爆笑」や「風雲たけし城」「コメディーお江戸でござる」など人気お笑いテレビ番組のコント台本を書いてきた放送作家。現在は故郷の長崎県佐世保市に戻り、子どもたちに落語を教える。

※記事・写真は2019年07月19日時点のものです

Source : 国内 – Yahoo!ニュース

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