聞き手・真田香菜子
和歌山市の選挙演説会場で岸田文雄首相の近くに爆発物が投げ込まれた事件から1カ月。この間ネットを中心に、「テロ事件の容疑者の動機や生い立ちは報じるべきではない」「模倣犯を生みかねない」といった意見が飛び交った。政治思想史が専門の犬塚元・法政大学教授は、「こうした議論は『愚民観』に基づくもので、リベラルデモクラシー(自由民主主義体制)の崩壊につながる」と指摘する。
犬塚元・法政大学教授に聞く
――先月の事件以降、自民党の細野豪志衆院議員の「テロを起こした時点でその人間の主張や背景を一顧だにしない」というツイートをはじめ、「テロ事件の容疑者の背景は論じるべきではない」という意見をインターネットやSNSでよく見かけました。
リベラルデモクラシーの原則が軽んじられる社会になってしまったと感じました。
それは二つの意味においてです。第一に、おぞましいテロ行為が起きてしまいました。力ではなく言葉で共存を目指すのがリベラルデモクラシーや政治という営みの大原則ですが、それが揺るがされました。なお、こうした事件をテロと呼ぶべきか、政治的な事件のみをテロと呼ぶべきではないか、という議論もあるわけですが、何が「政治的」なのか自体が非常に論争的で、その意味は狭くも広くもなります。安倍晋三元首相の銃撃事件も、岸田首相の事件も、容疑者の行為の意図や動機だけでなく、行為の帰結や社会的意味まで考慮すれば、テロと呼ぶことは誤りとは言えないでしょう。2001年にアメリカで起きた9・11の事件の場合と同じように、宗教的な動機に基づいたとしてもテロとみなすことは可能です。
第二に、「報道規制」を安易に説く主張が登場しました。社会全体で解決すべき問題が起きたときは、各人が十分な情報を持ち、考え、個人の自由を尊重した上で、みんなで物事を決めるのがリベラルデモクラシーの大原則です。報道を規制すべきである、情報を統制したらいいという議論がすぐに出てくることは、デモクラシーの社会にはそぐわない。非常に恐ろしく感じました。
後半では、「愚民観」を警戒するべき理由のほか、「容疑者の背景を物語化してはいけない」「容疑者への共感が暴力の容認や模倣犯につながる」といった意見について、さらに考えていきます。
「容疑者の英雄視につながる…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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