ノーベル賞がすべてを変えた 1枚のチラシからの再出発

 核兵器禁止条約が1月22日に発効しました。被爆者の声を世界に届け、非核保有国の背中を押し、国連で条約が採択される立役者となったのは、NGOの連合体「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN、アイキャン)でした。

 大型客船で世界を巡る国際交流NGO「ピースボート」の共同代表で、ICANの国際運営委員も務める川崎哲(あきら)さん(52)は、大学生の時から市民運動に携わってきました。時代とともに変遷する市民運動をどう受け止めているのか。話を聞きました。

かわさき・あきら 1968年生まれ。東京大法学部卒。ピースデポ事務局長を経て、2004年からピースボート共同代表を務める。父の川崎昭一郎氏は物理学者で、米国の水爆実験で被曝したマグロ漁船「第五福竜丸」の保存活動に尽力した。

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 1988年にイラン・イラク戦争が終わり、バックパッカーでイランに行きました。世界を見てみたいという思いがあって。

 当時20歳。日本人の個人旅行が珍しかったこともあり、いろいろな人が温かく迎えてくれました。すると、今度は90年にイラクがクウェートに侵攻し、中東でまた戦争か、という雰囲気になってきた。海外に出れば、多少は世界の問題を考えるようになるわけですね。翌年に湾岸戦争が勃発し、自衛隊の海外派遣が議論になったので「湾岸戦争の協力には反対!」というキャンペーンを張って外務省の前で座り込みをしました。大学のキャンパスでもビラを配って仲間を集めましたが、学生運動はとうに過ぎ去った世代。変わり者と見られて友人からは疎んじられるようになりました。

 日本社会はバブルの名残がまだあって、仕事には困らなかった。学生たるもの就活して、ということではなかったんですよ。何でも好き勝手にやっていいんだっていう感じがありました。だからむちゃできたわけですが、法学部だったので周囲には司法試験を受けたり、国家を背負って仕事をしたりしたいという人が多かった。だから、僕は「そんなことして何になるの?」と見られてきたし、言われてきた。

 大学は4年以上在籍していましたが、最低限の単位で卒業しました。その間にバブルがはじけ、賃金を払ってもらえない人たちが出てきた。特に、出稼ぎに来ていたイラン人たちは外国人だから、という理由でトラブルに巻き込まれることが多かった。相談を受けると現場に乗り込み、会社に直談判しました。建設現場で働いている人がたくさんいましたが、請負制度はめちゃくちゃだし、外国人を体よく使い、状況が変われば排除しようとする日本社会のマイナス面も見えました。

 路上生活者の支援にも取り組みました。失業者が増え、東京都庁に続く地下通路には段ボールの家が並ぶようになりましたが、都は路上生活者を締め出す動きに出たので、外から支えよう思ったんです。炊き出しをし、病人がいないか見て回りました。ただ、現場の支援は大変でした。連日連夜で、寝る暇もない。数時間前に話した人が朝になったら亡くなっていることもあり、過酷な現実を突きつけられました。

 渋谷で炊き出し中に、サラリーマンから暴力をふるわれたこともありました。相手は酔っ払っていたと思いますが、反撃したら僕が悪者になると思ったので、やられっぱなしでいたら髪の毛がぼこっと抜かれてしまった。要は、支援活動をしていれば殴られる、みたいなことだったんですね。仲間からはついに円形脱毛症になったのかと言われました。

 体力的にもきつくなった頃、リーダー役の仲間がバイク事故で死亡するということもあり、相当悩みました。ぐいぐい引っ張っていく人がいない中で何ができるのか、と。それで、「ちょっと休ませてくれ」ということを、一緒にやっていた稲葉君や湯浅君に言った記憶があります。「年越し派遣村」で注目された(社会活動家の)湯浅誠君と稲葉剛君です。同じ大学だったんです。この活動は結局、これっきりになりました。

アルコール中毒の手前

 現場の活動から手を引いた時は…

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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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