患者の生活や家庭も無視し、強制的に療養所に閉じ込める。ハンセン病の隔離政策は、今も深刻な人権侵害の爪痕を残す。戦後に特効薬が出た後もなぜ、こんな状況が見過ごされてきたのか。国立療養所の医師だった成田稔さん(92)は、そのおかしさに気づくのに30年以上かかったという。「愚かしいことだった」。こう悔いる。
――成田さんが多磨全生園で働き始めたのは1955年。治った後も大勢が療養所に残っていた状況に疑問を持ちませんでしたか。
「思わなかったね」
――今の常識で考えると、思わなかったことの方が不思議です。
「後遺症がほとんどない入所者に『帰ったらどうだい』と話しかけたことは何回かあったよ。でもその度に『どうやって帰るんだよ』という言葉が返ってきた」
「『おかしい』というのは、外に出ていくためには周囲の偏見をこうやって無くそう、生活能力を補うためにお金はこうしよう、ということが整った上で、それでも退所できないときはそう言えるよ。でも、そういう状況じゃなかった」
――とはいえ、無責任ではないでしょうか。入所者から相談されることはありませんでしたか。
「ハンセン病はかつて『らい病』と呼ばれていたが、勤め始めたころ、ある人がこう言っていた。『らいと言われて、自殺を考えなかった者はいない。おれだって考えた』と。『治らないからか』と聞き返したら、『ばかか。なぜそう考えるかちゃんと勉強しろ』と言われた。でもそのままにしてしまった」
――なぜですか。
「医者には『治してやる』『こうしてやる』という思いが強い。私も患者のために一生懸命やっていることで、自分が良いことをしていると思っていた」
記者から「予防法にしがみついたんだろ」
――おかしさに気づいたのは。
「85年に園長になって、入所者の団体が始めた予防法の学習会に参加した。そこで初めて『らい予防法』をちゃんと読んだ。これはひどい法律だと思ったよ。患者の使ったものはどれも消毒するように書いてあるけど、そんな必要はない。療養所への強制入所もおかしい。こんな規定はすぐにやめた方がいいと思った」
「勤め始めた夏のこと。入所者のもとに診察に行くと『まだ1回も使ったことがない湯飲みです』とわざわざ言ってから茶を出されたことがあった。ミカンの缶詰も出そうとするんだけど、向こうでスイカを冷やしているから『スイカがいい』というと『本当に? 包丁はうちで使っているやつよ』と驚くわけ。うつらないのに、なぜそんなに気を使うんだろうと当時は思っていた。消毒の規定があったからなんだと、ようやく思い至ったね」
――「らい予防法は医学的には当然廃止されなくてはならない」「恐怖心をあおったのは取り返しのつかない重大な誤り」。日本らい学会(現・日本ハンセン病学会)は95年にようやく、こうした見解を発表しました。まとめたのは成田さんです。
「たまたま大きな波が来たから乗っかっただけ。私が波をつくったわけじゃない。ただ予防法の廃止は、入所者の中にも反対意見があった。療養所がなくなると、自分たちの居場所がなくなる恐れもあったからだ」
――そのときまで、行動しようとは思わなかったのですか。
「学会の見解を出した会見で、…
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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