太平洋戦争末期、米軍機が南西諸島全域を爆撃し、那覇市などで大きな被害が出た「10・10空襲」から75年。空襲を皮切りに沖縄の戦況は大きく悪化し、沖縄県内二つの療養所にいたハンセン病患者も劣悪な環境を余儀なくされ、多くが犠牲になった。「戦争では弱い者から死んでいく」。当時の戦禍と差別の二重苦を知る元患者らは、悲劇を次の世代に語り続けている。
1944年10月10日に始まった米軍の猛烈な空襲では、沖縄県名護市の「国頭愛楽園」(現沖縄愛楽園)も45年4月までに9回の爆撃を受け、施設の多くが焼けた。爆撃で亡くなったと確認できるのは1人だが、44~46年に入所者約900人のうち315人が死亡。大半は栄養失調やマラリアなどが原因とみられる。
沖縄県史や園の自治会の資料によると、日本軍が44年、兵舎が足りず公民館や民家を接収する中で、感染による兵力低下を防ごうと考え、ハンセン病患者の強制収容を沖縄本島や宮古島で進めた。収容は「祖国浄化の戦士」になることだと、軍は強調したという。
園の自治会に残る記録によると…
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル