ヒロシマから半世紀を経て連作 核廃絶へ「体が動く限り描き続ける」

 15歳の時、山形県鶴岡市の洋画家三浦恒祺(つねき)さん(93)は広島市で被爆した。忘れられない惨禍と平和への願い――。それが、被爆の実相を伝え、核兵器廃絶を訴える連作「原爆の形象」につながっている。

 《父の転勤で1935年から広島市で暮らし、被爆当時は旧制広陵中学(現広陵高校)2年生。45年8月6日、勤労奉仕で陸軍糧秣支廠(りょうまつししょう)の事務用品を郊外に運ぶ作業を命じられ、朝早くから同級生とトラックで移動し、爆心地から4キロ北で荷物を下ろしていた時だった》

 突然、青白い閃光(せんこう)に包まれました。地の底から湧き出るようなドーンという爆音とともに地面が揺れ、爆風も吹いて。音のした方角を見ると、市中心部から不気味なキノコ雲が青空へ膨れあがり、雲の下に赤い炎が立ち上った。朝はそこを通っていたので、出発が遅ければ命はなかった。

 《作業を終え、トラックで糧秣支廠や学校がある市南部へ。途中からはがれきで道路が通れず、歩いた》

 炎と煙が渦巻き、建物は焼け落ちているなかで、生き地獄を見たのです。

あげられなかった一滴、後悔の念いまも

 頭から足の先まで全身が赤黒く焼けただれた人たちが、郊外へ避難する列が延々と続いていました。地面をはうようにうごめいている人や、黒こげで亡くなっている人もいました。「水をください」と言われましたが水筒もなく、断るしかなかった。せめて一滴でもあげたらどんなにか喜ばれたろうと、今でも頭から離れないのです。

 《爆心地の南約2キロにあっ…

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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