「核なき世界」のプラハ演説から10年。しかし中距離核戦力全廃条約が失効、核使用を示唆する国も現れ通常兵器のように使われる恐れも出てきた。「核ある世界」にどう向き合うか。
核保有、本当の恐怖を知らない 下平作江さん
核兵器の恐ろしさ、非人間性を伝えるため、被爆体験の語り部になって40年になります。今も長崎を訪れる小、中学生たちに話しています。
しもひら・さくえ 1935年、旧満州(中国東北部)生まれ。被災地復元、被爆者援護策拡充の運動に参加。長崎原爆遺族会顧問。
10歳のとき被爆しました。長崎市の城山国民学校(現長崎市立城山小学校)の5年生でした。8月は毎日のように空襲警報が発令され、大半の時間を爆心地から800メートルほどの油木町の防空壕(ごう)で過ごしていました。8日に久しぶりに家に帰り、翌9日は、母のそばにいたくて、家の中で遊んでいました。空襲警報が鳴り、「今日は危ない気がする」と母にせき立てられて8歳の妹と1歳半のおいを連れて防空壕に行きましたが、これが母との最期の別れになりました。
11時2分。ピカッと光った瞬…
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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