東日本大震災から11日で12年となった。原発事故が起きた福島に、山梨から特別な思いを向け続ける人がいる。(池田拓哉)
「久々に福島の松川浦に行くんですよ」。こう語るのは、マイクの力で災害から人々を守る使命と向き合う、甲府市の山梨放送(YBS)アナウンサー、和泉義治さん(40)だ。
コロナ禍になるまで、妻の実家がある福島市に帰省した時には、福島県相馬市の松川浦漁港まで車を走らせずにはいられなかった。復興がどれくらい進んでいるか、ずっと気がかりになっているからだ。
松川浦を訪れるたび、潮の香りを浴びて船のエンジン音を聞きながら、一緒に写真に納まった取材先の漁師たちの顔を思い浮かべる。身を案じながら「がんばって」と心の中で声援を送る。そして自らに問い続ける。「山梨で災害が起きた時、自分には救える命があるだろうか」と。
「本当の情報を伝えてくれ」避難所でせがまれ
12年前、東日本大震災の発生時、ラジオ福島(福島市)のアナウンサーだった。当時、28歳。発生直後から、水やガソリン、入浴施設の情報などが多数寄せられ、関係先に確認しながら放送した。昼夜を問わず福島県内を取材とリポートで駆け回った。沿岸部は道がうねり、船や家が打ち上げられていた。
取材で訪れた避難所では「原発は大丈夫なのか。本当の情報を伝えてくれ」と何人にもせがまれた。身内に不幸もあった。福島県内で入退院を繰り返していた妻の祖母は余震や停電が繰り返されるなかで体調を崩し、2週間後に亡くなった。
取材で訪れた松川浦は東京電力福島第一原発から北に約40キロ。漁港は県内一の漁獲量を誇る象徴的な場所だ。それが震度6弱の揺れと津波に襲われ、壊滅的な被害を受けた。原発の高濃度汚染水が流れ出した影響で、漁業は一時、全面操業自粛に追い込まれた。
何度も足を運び、漁に出られないたくさんの漁師たちの悲鳴を聴いた。「生きていることは決して当たり前ではない」と、被災した土地や人、親戚に接して身をもって知った。そして、ここに暮らす人たちが、みんなで支え合って生き抜こうとしている。そんな姿が印象的だった。
夢見つけ山梨へ 「避難してきたんですか」
震災は、和泉さんがちょうど新たな夢を見つけ、福島を離れようとした矢先に起きた。8カ月後には転職先の山梨へ。「被災地から逃げたと思われているのではないか」。そんな思いが頭によぎり、後ろめたさをずっと引きずった。
11年末、YBSに入社し、震災前からあこがれていたテレビの世界にも活躍の幅が広がった。都留文科大学(山梨県都留市)の卒業生でもあり、山梨は親しみのある土地だった。
一方、山梨県内で投げかけられる「避難してきたんですか」という何げない一言に傷ついたこともあった。福島に暮らし続ける人たちには「そばで復興の力になれず申し訳ない」という感覚を持つようになった。
「放送を通じて災害から人々を守る」。震災の経験から、そんな強い思いは変わらない。だが、痛恨の思い出もある。
14年2月の豪雪で、山梨県内では1メートルを超える記録的な積雪となり、車内に閉じ込められるなどして5人が死亡した。山梨で雪が人の命を奪うとは思わなかった。「外出を控えるよう放送で呼びかけていれば、救える命があったかもしれない」。災害への想像力が足りなかったと悔やんだ。
いま、富士山の噴火による災害を心配する。「福島もかつては大震災への警戒が薄かった。災害は突然やってくる。山梨の人々を守る力になりたい」。いま一度、福島の海に誓う。
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2011年3月11日、山梨県内では中央市や忍野村で最大震度5強の揺れを観測。2人が負傷し、住宅4棟が一部損壊した。12日早朝にかけて最大14万世帯以上が一時停電した。
県内では震災や原発事故からの避難をきっかけに、今も県外から452人(3月1日現在)が身を寄せ続けている。中央市が146人で最も多く、甲府市が82人、笛吹市が56人で続く。福島県からの避難者は376人で8割強を占める。
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル