千葉ロッテマリーンズ・佐々木朗希投手が完全試合を達成するなど、2022年シーズンもプロ野球は盛り上がりを見せる。朝日新聞フォトアーカイブに残る写真で、かつてにぎわいを見せた球場の雄姿をたどった。その千葉ロッテの前身となるチームが使った球場は東京の下町にあった。
60年前にオープンした「東京スタジアム」
町工場や民家がひしめき合う東京都荒川区に60年前、「光の球場」が出現した。東京スタジアムだ。「明るいライトの下、下町唯一の球場とあって人気も上々」(1962年6月3日付朝日新聞)
大毎オリオンズ(現・千葉ロッテ)の本拠地として、オーナー永田雅一氏が30億円の私財を投じて、わずか11カ月で完成させた。
2本の鉄の柱に支えられた照明灯が6基。「バッテリー間の明るさは後楽園より数等明るい感じである」(同年7月22日付朝日新聞)
「マサカリ投法」で知られた村田兆治氏(72)も明るさに驚いた一人だ。「広島から東京に出てきて、ナイターの灯をまぶしく感じた」。68年にドラフト1位でオリオンズに入団し、東京スタジアムでは15勝をあげた。
スタジアム完成時、中学2年生だった青木健志さん(73)は「まわりに高い建物がなかったから、試合のある日は高架の南千住駅から光がぼうっと浮き出しているように見えた」。実家はコロッケパンが地元で人気の「青木屋」。店先に牛乳を並べると、試合帰りの観客に飛ぶように売れた。試合が終わり、照明が消えると、「カナブンやガがいっせいに民家の方に飛んできた」。
そば屋「おおもり」の大森啓市さん(73)は、「学校から帰ると、選手に出前を届けに球場に入った」と振り返る。アルトマン選手はいつも「たぬきそば」だった。「最初にたぬきそばを食べた時に本塁打を2本打ったから、験担ぎでね」。出前を届けた後は、ブルペンの隙間や記者席から、観戦した。
両翼90メートル、中堅120メートルと広さは十分だったが、左中間、右中間の膨らみがなく、本塁打が出やすかった。実家がスタジアム近くでおもちゃ屋を経営していたという小林敏男さん(75)は「場外に硬球が飛んでくることも多くて、よく拾いに行ったなあ」。
ガラガラだった客席
3人に共通する記憶は「いつ行ってもガラガラ」。初年度こそ73万人の観客を動員したが、67年度は28万人とリーグ最少になった。
65年からシーズンオフに外野席の上にやぐらを組んで氷を張り、スケート場としても利用したが、赤字が膨らんだ。70年はロッテのリーグ優勝や日本シリーズでにぎわいを取り戻したものの、71年に永田氏が経営から手を引いた。72年10月に閉鎖され、77年に取り壊された。「あっという間にでき、あっという間になくなった球場だったなあ」(大森さん)
跡地には今、荒川総合スポーツセンターと市民が使う南千住野球場がある。グラウンドから、東京スタジアムの本塁があった方角を見た。ビルの間に下町の新たなランドマーク、東京スカイツリーが立っていた。(阿久沢悦子)
「煙突の見える球場」「げた履きで通える球場」として、下町の人たちに親しまれた東京スタジアム。赤字が重なり、わずか10年でその歴史を閉じました。記事後半では「マサカリ投法」で知られる村田兆治さんが球場の思い出を語ります。
村田兆治さん「投手泣かせの球場だった」
――1968年、ドラフト1…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル