残りの56枚は、捕虜になる前のロシア兵が駐留していた旅順などで撮影された可能性が高い。 ▽「一等国」入り目指して 日本での写真は、収容所内での捕虜の葬儀や、ロシア正教の礼拝堂、看護師による手当て、日本人のロシア正教司祭、収容所に出入りしていた日本の子供と捕虜が記念撮影する様子などを写している。 ロシア兵追悼のために建立され、現在も泉大津市にある「五稜の碑」の創建時の写真もあり、全体から読み取れるのは、世界の「一等国」入りを目指していた当時の日本が捕虜を厚遇した様子だ。 日本は1899年に調印したハーグ条約に基づき、捕虜の人道的な待遇を重視し、逃亡しないとの誓約書を出せば将校は制限付きで自由行動が認められ、素行のいい下級兵士も警官らの同行で外出することができた。捕虜の死亡時には葬儀も執り行われた。 写真の中でも目を引くのは、ロシア捕虜が収容所外に出て曲芸を眺めるカット。垂れ幕に見える文字「富士川廣三郎」は軽業師で、1899年に曲馬師の山本精太郎らと共に日本初のサーカス団とも言われる「日本チャリネ一座」を創設した人物として知られる。大阪で行われた富士川廣三郎の一座の公演を訪れた様子を写した一枚とみられる。
Source : 国内 – Yahoo!ニュース
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