2年前、90代の被爆者が1度だけ引き受けた被爆体験講話を、当時の中学1年生が紙芝居にまとめた。3年生になった生徒たちは今秋、紙芝居に英訳を添えて披露した。重い口を開き、託してくれた平和への願いを、言葉や世代を超えて広めたい――。そんな思いを生徒たちが形にした。
「On August 9th,1945, I had my usual morning.(1945年8月9日、私はいつもと変わらぬ朝を過ごしていました)」
長崎市立梅香崎(うめがさき)中(同市大浦町)で9月下旬、近くに住む被爆者の平山ヤス子さん(94)を迎え、紙芝居の発表会があった。ナレーションやセリフはすべて英語。英語は分からないという平山さんだが、時折目を閉じながら聴き入った。
平山さんは19歳のとき、女子挺身(ていしん)隊として働いていた三菱長崎造船所(爆心地から約3・5キロ)で被爆。大けがはしなかったが家を焼かれ、爆心地近くにいた1歳下の弟を亡くした。
人の形をとどめないほど焼けただれた人たち、防空壕(ごう)で寝起きし、食べるものもなかった貧しい生活――。「言葉にできないほどのむごい状況を思い出したくない」と、被爆体験を語ることはなかった。
だが、孫が梅香崎中で司書として働いていた縁で、2018年、当時の1年生に自身の体験を初めて語った。重い口を開いたのは、90歳を超えて「自分はあと何年生きるか」と考えたことがきっかけだ。終戦から70年が過ぎても世界で核兵器が作られている。あの惨状を繰り返してほしくないとの思いが募った。「実際に見た原爆の怖さを伝えなければ」と自らを語ることにした。
生徒たちにとっては中学で初め…
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル