作家・三島由紀夫による「三島事件」から11月25日で50年がたつ。東京・市谷の陸上自衛隊施設に立てこもり、国軍化などを訴えて自決した衝撃的な事件は、国内外を震撼(しんかん)させた。遺族はこの半世紀をどう生きてきたのか。事件で三島とともに自決した森田必勝(まさかつ)氏(享年25)の実兄、森田治さん(91)に話を聞いた。(編集委員・藤生明)
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- 三島事件
- 三島由紀夫が1970年11月25日、楯(たて)の会学生長の森田必勝ら4人とともに陸上自衛隊東部方面総監部(東京)に押し入り、総監を監禁。自衛隊の決起を促した後、三島と森田が割腹自殺した。当時の佐藤栄作首相は「気が狂ったとしか考へられぬ」と日記に書き、中曽根康弘防衛庁長官は「迷惑千万。常軌を逸した行動」と会見で批判。反対に、右翼の大半は事件を「義挙」などと評価した。
「必勝君が亡くなった」
第一報は、治さんが勤めていた中学校にかかってきた電話だった。相手は必勝氏の友人。弟は三島と行動をともにし、テレビにも映っていたと言われた。
混乱する中、近くの三重県警四日市南署へ急いだ。県警本部を通じて死は事実だと知り、すぐに上京。遺体の安置された慶応大学病院内に通されたのは翌日だった。
「三島先生のところに行くから早めに帰るよ」。夏休みに帰省した弟がそんな言葉を残して、四日市市の実家を後にしたのは1970年8月。早稲田大の学生だった。それが最後の姿になろうとは夢想だにしなかった。
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必勝氏は、5人兄弟の末っ子だった。生後2年半で父が、少し後に母がともに病死。16歳上の治さんが親代わりを務めた。
必勝氏が早大を受験する前に、下見に同行した。ところが、大学では左翼学生らがバリケードを築き、構内への出入りもままならない状態だった。「これじゃあいかん、と。あれを起点に、弟に憂国の気持ちが芽生え、醸成されたんでしょう」
必勝氏は66年に入学。戦後右翼の親米反共路線とは一線を画し、戦勝国による世界秩序の打倒を掲げた民族派運動に加わった。自衛隊の体験入隊などを通じて三島と交流が始まり、やがて三島の私兵組織「楯(たて)の会」で学生長を務めるようになった。
そして入学から4年後、事件を迎えた。
三島らは、陸自の東部方面総監…
2種類
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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