東日本大震災で津波が襲い、約200人が犠牲になった仙台市若林区の荒浜地区。管轄していた仙台南署の警察官たちは、発生直後から行方が分からなくなった人の捜索を続けた。心身ともに極限状態に置かれるなか、どのような思いが活動を支えたのか。66日間にわたり捜索隊の指揮を執った宮城県警石巻署の手島(てじま)俊明・前署長(60)が、定年退職を前に語った。
仙台南署の交通2課長だった手島さんは2011年3月11日、市中心部にある県警本部にいた。午後2時46分、会議を終えてソファで話をしていたところ、立ち上がれないほどの激しい揺れに見舞われた。
そのころ、宮城県沖地震が近いうちに高い確率で起きると言われており、発生時はどう行動するか、頭の中でシミュレーションを繰り返していた。「ついにその時が来た」と感じた。
車で南に約5キロ離れた署に向かう。建物の被害は思ったよりひどくなかったが、広瀬橋を渡り、地下鉄の長町一丁目駅あたりを過ぎると、道路は陥没してジェットコースターの軌道のように波打っていた。
署にたどり着き、着替えてから4階の災害警備本部に入った。テレビには、名取川河口の井土浜に津波が襲来する映像が映し出されている。川にかかる閖上大橋の上には、取り残されたパトカーと署員の姿があった。「殉職してしまった」。そう思った。
つかめぬ被害状況、「300の遺体発見」との情報も
あたりは暗くなり、被害状況…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル