広島県三原市の下江(しもえ)正一さん(82)は4歳のとき、広島市内の幼稚園で被爆した。原爆で両親と幼い妹を失い、一人残された。遺骨は見つかっていない。家族の面影を残すのは写真だけだ。
被爆前の記憶は断片的にしかない。でも「あの日」からのことは鮮明に覚えている。がれきの上を歩いてたどり着いた郊外の農家で、何日間か過ごしたこと。山口県の母の実家から三原市の親戚のもとへ線路伝いに歩いて向かったこと。その途中、工事作業員がおにぎりを食べているのがうらやましくて見つめてい
たら、一つもらえたこと。その味も覚えている。
ただ、家族について知っていることのほとんどは、人から聞いた話だ。幼いころ大切な人たちを失った喪失感は消えない。ロシアのプーチン大統領が核兵器の使用を示唆していると知って強く思う。「いまの子どもたちには、絶対に自分のような目に遭ってほしくない」(興野優平)
ロシアのウクライナ侵攻で核兵器使用の懸念が高まるなか、核兵器を持つ国と持たない国の参加者が一つのテーブルに付き、それぞれの国の立場を超えて知恵を出し合う「国際賢人会議」が12月10日と11日、広島市で開かれます。核兵器を取り巻く厳しい現状に、被爆者たちも深く心を痛めています。一瞬にして家族や友人らを奪われたり、長い年月、病気に苦しんだりしてきた実体験から、核兵器の恐ろしさを広く伝えようとしています。朝日新聞広島版で続く連載「聞きたかったこと」で過去に体験を語ってくれた被爆者のもとを記者が再び訪れ、いまの思いを聞きました。当時の記事も再録します。
(聞きたかったこと)大切な写真、家族思う 広島県三原市 下江正一さん(73)
(2014年3月12日朝刊広島版掲載。年齢や年月日などは掲載当時のものです)
趣味の写真が高じて公民館の写真講座で講師を務める下江正一さん(73)=三原市明神3丁目。4歳の時に被爆し、避難先の山口県岩国市から、さらに三原市まで歩いて逃避行を重ねたという。人づてに下江さんのことを知り、体験を話してもらった。
下江さんには大切にしている写真がある。原爆で亡くなった父、母、妹の面影を唯一伝える3枚だ。父一男さんは軍服姿。母チエ子さんは花嫁姿。妹敏恵さんは1歳。1歳の誕生日に撮影したことが、写真の裏に記されている。
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自宅は爆心地から約1.5キロの広島市中区東白島町にあった。いつものように父親を送り出した後、自宅から歩いて10分ほどのところの幼稚園にいた。室内で女性教諭と話をしていた時だった。突然、真っ白になった直後、真っ暗になり、吹き飛ばされた。
気が付くと体のすぐ横に、天井の太い梁(はり)が倒れていた。屋根から落ちた土で顔は埋まり、口の中まで入ってきた。寝返りを打って、手を伸ばしたところ、女性教諭に引っ張り出された。女性教諭の顔には割れたガラスが刺さり、血だらけだった。怖くなり、自宅に帰ろうと、泣きながら飛び出した。
外では、木造家屋はことごとく倒れ、多くの人があちこちでうめき声を上げ、もがいていた。再び怖くなり、幼稚園に引き返した。
「正ちゃん、正ちゃん、一緒…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル