八村塁選手が、アメリカのプロバスケリーグNBAからドラフト指名を受けた。日本出身選手史上初めて、ドラフト指名からNBAでプレーすることになる。
世界最高峰のリーグが認めるスターに成長した八村選手。バスケを始めた中学からきょうこの瞬間まで、数々の偉業を塗り替え、輝きを放ってきた。
そのルーツや軌跡を、恩師の言葉を交えながら振り返る。 (浜田理央 / ハフポスト日本版)
中学校の恩師が後押し「NBA並だ」
八村選手は1998年生まれで、富山県の出身。ベナン人の父と、日本人の母との間に生まれた。
小学生の時は野球少年だった八村選手は、地元・奥田中に進学した後、野球を続けず、友人・コーチの誘いもありバスケットボールを始めた。
初心者でバスケ技術はおぼつかなかったが、持ち前の運動能力の高さと体格を生かして、2年生になると、徐々に試合への出場機会を与えられた。
八村選手が3年の時、奥田中としても初となる全国大会に出場。決勝戦で強豪の西福岡中学に敗れたが、チームトップの20得点をあげた。
八村選手がアメリカやNBAを意識したのは、恩師の坂本穣治コーチの影響だった。坂本コーチは言う。
「練習中に片手でバスケットボールを掴んで、野球ボールみたいに持ち上げた時、『NBA並だ』と伝えたんです。そしたら、私の言葉を真に受けて、興味を示したみたいです」
「進路については、スカウトに来た高校の指導者と私と親御さんで話しました。NBAは大袈裟なので、『アメリカに行かせてやりたい』という話をしました。どの学校も『アメリカに行けるように努力します』と応じてくれたので、最終的に進路が決まった時には『NBAが近づいたな』みたいな話を塁にしたように記憶しています」
アメリカ、そしてNBAという目標を提げて、宮城県の名門、明成高校へと進学する。
「バスケは、すっごいすっごい楽しいです」
夏のインターハイでは、1年生ながらスタメン起用され、197センチの高身長を生かしてゴール下で存在感を発揮。準決勝で破れて優勝は逃したが、堂々の3位に輝いた。
その年の頂点を決める、冬のウィンターカップ。筆者が、初めて八村選手を生で見た瞬間だった。「ものすごい選手が現れた」と心の興奮を抑えきれなかった。
福岡大付属大濠高校との決勝では、1年生とは思えない類稀なポストプレーで得点を量産。先輩に助けられながら、1人で32点を叩き出し、優勝の立役者となり、大会ベスト5に選出された。
ここから、八村伝説が始まった。
再び大濠高校との対戦となった、2年生の冬のウィンターカップ。同点で迎えた残り50秒。相手のレイアップシュートを豪快にブロックした後のオフォンスで、味方が外したシュートをタップで押し込むと、ゴールを叩いて感情を爆発させた。このゴールが決勝点となり、2連覇を成し遂げた。
「バスケはすっごい楽しいです」
インタビューでそう振り返った。
そして3年生。
夏のインターハイは圧倒的な実力で優勝。その後に臨んだ、3連覇がかかったウィンターカップ。国体で破れ、その年唯一の敗北を喫した土浦日大に、30点以上の活躍で雪辱を果たした。
田臥選手が率いる能代高校、日本代表比江島慎選手が率いた洛南高校に続いて、史上3校目となるウィンターカップ3連覇を成し遂げ、高校バスケ会の歴史に名を残した。
3年連続でベスト5にも選ばれ、試合後の勝利者インタビューでは、満面の笑みでこう語った。
「みなさん。バスケは、すっごいすっごい楽しいです。バスケは最高です」
最後の大会を3連覇で飾り、八村選手は中学校の恩師の言葉通り、アメリカへと旅立った。
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Source : 国内 – Yahoo!ニュース
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