戦前から戦中にかけて、新潟県からは都道府県別で5番目に多い約1万3千人が大陸にわたった。悲劇的な結末を迎える「満州開拓」が現代に伝えるものは何か。柏崎市の転業開拓団を通して考えたい。(戸松康雄)
新潟県柏崎市の市街地と日本海を見渡す高台に、高さ7メートル余りの2本の石柱が並ぶ「満州柏崎村の塔」がある。7日朝、桜井雅浩市長が訪れ、1942年に旧満州(現在の中国東北部)に渡った柏崎開拓団の約120人ら大陸で亡くなった人々を悼み、献花をした。
拡大する「満州柏崎村の塔」の献花台で手を合わせる桜井雅浩市長。左は満州柏崎村から生還した巻口弘さん=2020年8月7日、新潟県柏崎市緑町
75年前のこの日、軍の兵力不足を補う「根こそぎ召集」のため、柏崎開拓団から12人の男性が去った。女性や子どもたちが残った開拓団は、2日後のソ連参戦、8日後の敗戦という極度の混乱に見舞われ、苦難の逃避行を強いられる。終戦時にいた約210人のうち、日本に生還できた人は、抑留者も含めて4割にとどまった。
転業開拓団 市と商工会議所、送出を主導
全国から約30万人が入植した「満州開拓」は、1921年の山形県での出来事が発端だった。同県の自治講習所長・加藤完治氏が生徒から「私たち二、三男には耕す土地がありません」と訴えられ、退役軍人らとともに政府や軍部に大陸移民の実現を働きかけた。満州事変(31年)で支配権拡大を図った関東軍(旧満州駐屯の日本軍)も推進役となり、大量移民をめざす「20カ年100万戸送出計画」が36年に国策として決まった。
当初は、農村部の余剰人員を送り出して国内の生産性を高める狙いから、村の一部を「分村」として移したり、複数の村から集めて「分郷」をつくったりする方式で進められた。
しかし、戦線拡大による徴兵の増加や、景気回復に伴う国内の人手不足もあって、計画通りに進まない。そこで考えられたのが、経済統制で仕事が減った人を送る「転業開拓団(大陸帰農開拓団)」だった。
柏崎開拓団は新潟県では最初の転業開拓団として組織された。主導したのは市と商工会議所だった。
商議所は41年に転業相談所を…
2種類の会員記事が月300本まで読めるお得なシンプルコースはこちら
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル