北朝鮮の「死亡情報うのみ」 拉致被害者家族の気持ちに火がついた

 2002年9月、史上初の日朝首脳会談で北朝鮮が日本人拉致を認めた。翌10月、被害者5人が帰国。それから20年。新たな被害者の帰国はなく、被害者の帰りを待つ家族らは相次いで亡くなっている。なぜ拉致問題は進展しないのか。関係者に話を聞き、考えた。

 石破茂衆院議員(65)は北朝鮮を1回だけ訪れている。1992年4月。当選2回目の若手議員だった。

 鳥取で育った子どものころ「日本海の向こうに怖い国がある」と教わった。だが「一度も見ずに批判するのはよくない」と、金日成(キムイルソン)主席の80歳の誕生日を祝う与野党の訪朝団に参加した。

 平壌でマスゲームや歌劇を見た。徹底して反日的な内容や個人崇拝、一糸乱れぬ集団演技に驚いた。「こんな異様な国が近隣にあるのか。将来きっとわが国の脅威になるに違いない」と感じた。安保・防衛問題を専門とするきっかけとなった。

 97年に横田めぐみさんの拉致疑惑が表面化。国会議員らが「北朝鮮拉致疑惑日本人救援議連」(旧拉致議連)を結成した。しかし中山正暉(まさあき)会長(89)が訪朝後、北朝鮮に融和的になったとして02年4月、強硬派議員らが「北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟」(新拉致議連)をつくった。

 石破氏は安倍晋三・官房副長官(67)から「ぜひ新議連の会長に」と誘われた。「なぜ私が」と聞くとこう返ってきた。「右翼じゃないことが大事なんだ。エモーショナル(感情的)な活動にしてはならないんだ」

 拉致被害者・増元るみ子さん…

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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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