反対派の言葉にはっとした 目を背けたい歴史、見えなくなった本土

 久保田美奈穂さん(43)は11年前、茨城から沖縄に避難した。

 澄んだ空、きれいな空気。ただ、安全だと信じて逃げた沖縄には米軍基地があった。イメージになかった存在。なぜ自分たちは知らなかったのだろう――。

 2011年3月11日、突然の強い揺れに襲われた。茨城県内の自宅の壁にひびが入り、水道管から水が漏れた。車で寝泊まりし、親戚の家にも身を寄せた。

 4月には自宅に戻れたが、東京電力福島第一原発事故が不安だった。「子どもの健康に影響はないだろうか」。ネットで放射性物質について調べ、役所に「放射線量を測定してほしい」と掛け合ったが、部署をたらい回しにされたあげく、「モニタリングポストで管理しているから大丈夫」と言われただけだった。

 周りの友人も「気にしていたら、ここでは生きていけない」と諦めている人が多かった。「ここじゃない場所では普通の生活をしているのに」。そう思うとやりきれなかった。

 その年の6月、2人の子どもを連れて沖縄へ向かった。荷物はスーツケース一つだけ。少しでも原発から離れられれば。「少し早い夏休みのような感じだった」

 英語の看板、幹線道路の横に延々と続くフェンス。沖縄では連日、米軍基地への抗議活動がニュースで流れていた。

 生まれ育った神奈川県にも、米軍基地はたくさんあった。高校時代に一度、厚木基地に行ったことがある。ホームパーティーに招待され、外国に行ったみたいで楽しかった。

 「沖縄のことを、自分は何も知らないのかも」

 避難した翌年、反対運動の現場となっていた一つ、ヘリパッド(ヘリコプター着陸帯)の移設が計画されていた米軍北部訓練場(東村など)を訪れた。座り込みを続ける人たちが頭にタオルを巻き、サングラスをかけた姿は異様に見えた。

 でも、思い切って話しかけた…

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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