市民が刑事裁判に参加する裁判員制度、検察が不起訴とした事件を検察審査会が覆せる強制起訴制度、ロースクールで知られる法科大学院……。今では当たり前となった仕組みは、20年前どれも存在しなかった。それらを一から作り出したのが、2000年という世紀の変わり目をはさんで展開された司法制度改革だった。なかでも最大の山場は、この年の8月にあった司法制度改革審議会の集中審議だ。司法の姿を変えた「いちばん長い3日間」。いったい何が議論されたのか。
反論、また反論 3千人を巡る攻防
東京都港区の日向坂を歩くと、石造りの重厚な建物が見えてくる。三田共用会議所。かつては明治の実業家、渋沢栄一の私邸だった。
2000年8月7日。
そこに司法制度改革審議会のメンバー13人のうち11人が集まった。21世紀の司法のあるべき姿を検討してほしいと政府に託されて、ちょうど1年。この日から3日間、集中審議をする予定になっていた。
都内では真夏日が続き、午後の最高気温は32・8度に達した。審議会会長としてメンバーをまとめる憲法学者の佐藤幸治(84)は、数カ月のちに「今年の夏の暑さは格別のものがあった」とエッセーで振り返る。脳裏にあったのは、議論の「熱さ」でもあっただろう。「あの夏の集中審議が天王山だった」と佐藤は言う。いまの司法制度の方向は、ここで決まった。
「ミニマムの数字として毎年3千人の養成を提案すべきではないか」。口火を切ったのは、委員の一人で弁護士の中坊公平だった。
中坊が言うのは、弁護士・裁判官・検察官という法曹3者の数をどう定めるかについてだった。「フランス並みの5万~6万人を目指すとすれば、年3千人を養成した場合、2018年ごろには5万人となる」。当時、司法試験の合格者は年1千人弱しかない。一気に3倍にすべきだという大胆な提案だった。
元検察官で、証券取引等監視委員会の委員長をつとめた水原敏博が、性急すぎると反論した。「増員は必要だが、質の確保という点で一挙に3千人というものを持ってきていいのか」。
中坊がさらに反論した。「量というものを相当程度重視して考えないと、司法の抜本的改革はできない」
法曹界、経済界、消費者団体、大学研究者、作家……。さまざまな母体から集まった13人の中でも、中坊はひときわ存在感を発揮していた。
森永ヒ素ミルク中毒事件や豊田商事事件、香川県豊島の産廃問題に取り組んだあと、整理回収機構社長時代の仕事ぶりから「平成の鬼平」と呼ばれ、国民的人気を博していた。審議会がスタートした1999年夏には「民主党の首相候補として次の総選挙に出馬して欲しい」と菅直人代表から要請され、断った経緯もあった。
中坊の提案は佐藤にとっても驚きではあったが、法曹人口をフランス並みに増やすというのは説得力を感じた。
中坊とは同じ京大法学部の出身。二人きりで意見交換をすると、ときに激論になることもあった。ただ、司法制度改革の方向性では大筋で一致していた。
法曹界では解決できない、メスを入れる使命背負う
「小さな司法」の改善――。佐藤は会長を引き受けた時点から、強い思いを胸に秘めていた。
小さな司法とは何か。
日本の法曹界は長く、人為的に司法試験の合格者数を抑えてきた。
法曹になるには、司法試験に合格しなければならない。ところが1960年代半ば以降、合格者数は毎年500人前後にとどまり、1974年度から84年度にかけて合格率は2%を下回った。5、6回受験してようやくというのが当たり前となり、合格者の平均年齢は約28歳に。民事訴訟法学者の三ケ月章はかつて「わずか2%前後の合格者しか出さない試験というのは、もはや試験制度の常道を逸脱している」と評した。
合格者数を増やせば「法曹の質が下がる」などと、反対する理由は様々つけられたが、実態は法曹界という狭いコップの中で既得権にしがみついていたのだった。
司法試験離れへの危惧などから、1987年には法相の私的懇談会「法曹基本問題懇談会」がつくられた。緊急に司法試験制度を改善する必要があるとの結論を得て、議論の場は、法曹三者と学識者らでつくる「法曹養成制度等改革協議会」にうつった。
ギリシャ神話の女神「テミス」は両手に天秤と剣を持つ。司法の公正さと正義を表す象徴だ。司法制度のあり方を考える「テミスの審判」第1部では、司法制度改革審議会の会長を務めた佐藤幸治の歩みを軸に、改革の背景を探る。佐藤が取り組んだ「小さな司法」の改革は、日弁連をはじめとする法曹界に波紋を広げていく。
5年後の1995年、協議会…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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