台湾の李登輝(リートンホイ)・元総統(在任1988~2000年)が30日夜、多臓器不全のため台北市内で死去した。97歳だった。台湾出身者で初の総統となり、在任中に総統直接選挙を実現、台湾に民主政治を定着させた。政権の後半は中国との関係が緊張し、退任後は台湾独立志向を鮮明にした。日本の占領下で育ち、日本の文化にも精通。政界などに日本の知己も多く、日本と台湾の交流拡大に多大な力を発揮した。
今年2月に飲み物が気管に入り、台北市内の病院に緊急入院。肺炎となり治療を受けていた。
蔣介石、蔣経国の親子を頂点とする国民党の独裁体制が続いた台湾で、李氏は88年、蔣経国の死去により副総統から総統に就任。蔣経国政権末期に芽生えた政治改革の流れを継ぎ、議会改革などを断行。94年に台北市長などの直接選挙を行い、96年には初の総統直接選挙を実現させて台湾の民主化を根付かせた。
激しい対立が続いてきた中国との新たな関係の構築を模索し、91年には「中国共産党との内戦状態」の終結を宣言。中台の交流が制限される中、民間の窓口機関の海峡交流基金会を設立。中国側も海峡両岸関係協会を設置するなど、その後の中台協議の枠組みを築いた。93年に実現した双方の民間窓口機関のトップ会談は「歴史的な雪解け」とも言われた。
95年、李氏がかつて留学した米コーネル大学を訪れたのを機に中台関係は悪化。台湾が「一つの中国」の原則から離れていくと警戒した中国は95年と96年に台湾に向けてミサイル演習を行い、いわゆる台湾海峡危機が起きた。さらに李氏は99年、中台関係を「特殊な国と国との関係」(二国論)と位置づけ再び中国の強い反発を招いた。
00年3月の総統選では後継者の国民党候補・連戦氏が台湾独立志向の野党・民進党の陳水扁氏に惨敗。初の政権交代につながった。李氏は責任をとる形で国民党主席を辞任。陳総統支持の立場に転じ、国民党は李氏の党籍を剝奪(はくだつ)した。
08年以降の国民党・馬英九(マーインチウ)政権の対中融和路線を批判。再び民進党に近づいた。12年1月の総統選では同党候補の蔡英文(ツァイインウェン)氏を応援、一定の影響力を示した。在任中に李氏が推進した台湾の歴史や文化を学ぶ教育は、若者たちの「台湾人」としての意識を高め、14年3月に立法院(国会)を占拠した「ひまわり学生運動」の原動力になった。
李氏は日本の植民地時代に台北近郊(現新北市)に生まれた。旧制台北高校を経て京都帝国大学(現京都大)農学部に進学した。戦後、台湾に戻って台湾大学を卒業し、同大で農業経済学を教えた。
2度の米国留学後、政治家への道に転じ、72年に行政院政務委員(無任所閣僚)、78年に台北市長、81年に台湾省主席、84年に副総統と昇進した。
日本と台湾は、日中の国交が回復した72年以来外交関係はないが、李氏が総統だった90年代は日台間の経済関係が深まるとともに日本の台湾理解が進んだ。李氏自身、晩年まで日本の書籍に親しみ、日本での出版も重ねた。
01年、心臓病治療を理由に16年ぶりの訪日を果たした。日中間の外交問題となったが、その後も度々訪日した。夫人は曽文恵さん。1男2女をもうけたが長男を早く亡くした。熱心なキリスト教徒で、哲学にも造詣(ぞうけい)が深かった。(台北=西本秀)
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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