長崎原爆の日を控えた8日、長崎市内の各地で被爆者の証言を聞く集会や交流会が数多く開かれ、国内外から集まった若い世代が耳を傾けた。核兵器禁止条約の国連採択から2年。思うように進まない核軍縮の現状に焦りを感じながらも、被爆者は「あの日」の記憶を語り続ける。同じ悪夢を、ほかの誰にも味わわせないために。命の限り-。
被爆者で語り部の下平作江さん(84)は高校生平和大使らを前に講話した。10歳の時、爆心地から約800メートルの防空壕(ごう)で被爆。自宅にいた母と姉は真っ黒焦げになって亡くなっていた。遺体に触れると、そのまま崩れ落ちたという。
共に生き残った妹は病気や差別に苦しみ、被爆10年後に自ら命を絶った。生き永らえた者にも原爆はつきまとった。「こんな思いをするのは私たちで十分」
話を聞いた奈良市の高校3年、原苑美さん(18)は誓った。「戦争の恐ろしさが胸に刺さった。今後は私たちが周りに伝えたい」
4歳の時、セミ捕りの最中に被爆した小峰秀孝さん(78)は日本生活協同組合連合会が開いた集会に参加した。右足は、ケロイドに覆われ変形したまま。幼少時に「腐れ足」や「ガネ(カニ)」のあだ名を付けられ、壮絶ないじめを受けたことを明かした。
最後に小峰さんは力を込めた。「今の社会を見てください。核兵器禁止条約に日本は参加していないんですよ」。核兵器保有国との橋渡し役を自称する政府への憤りを隠さなかった。
師範学校に通いながら動員学徒として兵器工場で働いていた築城昭平さん(92)は全国から集まった青少年約550人を前に、夜勤明けの寮内でその時を迎えた記憶を生々しく語った。
空襲の爆弾から身を守るため、頭から布団をかぶって眠っていた。突然「バリバリバリ」と音がしたと思うと、爆風で吹き飛んだ体が壁に打ち付けられた。その後の長崎は「死の世界」になった、と表現した。「被爆者は減る。核兵器をなくす力を受け継いでください」。築城さんは、そう声を振り絞った。
西日本新聞社
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