国後、利尻への海底ケーブル施設 歴史的価値に注目

 戦前、北海道と国後島利尻島の間には、通信を担う海底ケーブルが敷かれていた。当時の様子をいまに伝える施設の歴史的価値に、注目が集まっている。

 国後島が終戦後に旧ソ連軍に占領され、北方領土の一部となるまで根室市との間をつないだ海底ケーブルの陸揚(りくあげ)庫は、国の登録有形文化財になることが決まった。利尻島にある陸揚庫でも調査が進み、ケーブルらしい遺物の存在も確認された。

 国後島への海底ケーブルは当初、島と根室市の北にある標津町とをつなぐ形で1897(明治30)年に敷設された。さらに、同じ年に択捉島までを結んだ。

 しかし、2年後の99年に標津町国後島の間のケーブルが流氷で切断されたため、ルートを根室市国後島との間の約38キロに変え、翌1900年に敷設し直された。

 一方、利尻富士町教育委員会によると、利尻島の海底ケーブルは1899年に敷設され、稚内市の抜海地区から利尻町を経て礼文島までを結んでいた。いずれも明治期に、当時の逓信省が海底ケーブル網を全国へ広げていく過程で整備されたものだ。

 北方領土への海底ケーブルは、旧ソ連軍が国後島や択捉島を占領した後の1945年9月半ばごろまで使われた。根室市の西浜地区の海岸べりにある陸揚庫は、海底ケーブルを陸に引き揚げて電信局などへ中継する業務を担った。

 鉄筋コンクリート造り平屋建…

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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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