大きな爆弾を抱えて走る3人の兵は、昭和初期、旧日本陸軍の英雄として知られた「爆弾三勇士」(「肉弾三勇士」とも称された)である。台座に「肉弾三勇士之像」と浮き彫りされた長さ9センチ、高さ4センチほどの文鎮は、寄贈者によると昭和11年ごろのグリコのおまけであった。
「爆弾三勇士」は、1932(昭和7)年の上海事変で中国軍が廟行鎮(びょうこうちん)に築いた陣に突撃するため、工兵第18大隊(久留米)の3人の工兵が、割竹の筒で爆弾を包んだ破壊筒を抱えて突進し敵陣の鉄条網を爆破したという実話をもとに作られた美談である。江下武二、北川丞(すすむ)、作江伊之助の3人の一等兵(戦死後、二階級特進で伍長)は自らの命も顧みず志願し大きな手柄を立てた軍神とたたえられ、「爆弾三勇士」「肉弾三勇士」として新聞、ラジオ、映画、歌、銅像、絵はがきなどさまざまな形で全国に流布し、一躍国民的英雄となった。
31年に中国東北部で関東軍の暴走で始まった満州事変以降、日本は国際的孤立を深めた。中国との戦線が拡大する中、国民の国家への忠誠心を養い、戦意を高めるために兵の命は巧みに利用された。戦死者は英霊として祭られ、多くの美談が仕立てられた。爆弾三勇士は小学校の運動会の競技に取り入れられるなど当時の少年たちにも大きな影響を与えた。忠君愛国、滅私奉公など戦時を生き抜く精神を子どもたちに浸透させるために学校を通して美談の収集も奨励された。
しかし、「福岡地方史研究」第56号などによると、爆弾三勇士は、上官に突入を命じられた3人の兵が途中転倒のアクシデントに見舞われたが、戻ることはできず、命令のままに突進し爆死してしまったというのが真相のようである。成功を確実にするため、導火線に点火してから突っ込むという作戦は大きな危険をはらんでいたが、自ら命を投げ捨てたわけではなかった。美談に酔い、精神論を重んじ命を軽んじる風潮はアジア太平洋戦争末期の神風特攻隊に象徴される特攻作戦へとつながっていく。
(福岡県嘉麻市碓井平和祈念館学芸員 青山英子)
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嘉麻市碓井平和祈念館が収蔵する戦争資料を学芸員の青山英子さんが紹介します。
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