「まだまだ勝手に関西遺産」
百貨店のディスプレーにかかせないマネキン。「日本のマネキンの発祥は京都」と聞いた。本当なの?
調べると、京都の中心部に全国25社が加入する「日本マネキンディスプレイ商工組合」なる団体が。同組合によると、国産マネキンの源流が精密機器大手・島津製作所(京都)にあるという。
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「島津製作所史」(1967年発行)をめくる。洋マネキン生産を始めたのは25年とある。
関東大震災後、「必需品」に
2年前の関東大震災後に洋服の需要が高まり、マネキンは「必需品」になった。当時はフランスから輸入していたが、輸送には一難あった。マネキンの顔がろうでできていたため、赤道付近を通る時に、高温で溶けて顔の形が崩れた。その修復を担ったのが、人体模型制作の技術を持っていた島津製作所。この縁が、マネキンづくりのきっかけとなった。
ちなみに、マネキンは、フランス語では「マヌカン」。しかし、「招かん」では縁起が悪い。英語の発音に近い「マネキン(招金)」の呼び名が採用されたと言われている。
芸術と社会との結節点にも
書籍「マネキンのすべて」の著者の一人、藤井秀雪さん(77)は「島津マネキンは単なる西洋の模倣ではなかった」と話す。当時、制作の中心になったのは、彫刻や洋画を学んだ芸術家たち。西洋文化に影響を受けながらも、洋装に似合う日本人の身体のイメージを追求した。和紙などで成型し、胡粉(ごふん)を塗っては磨いた。京人形づくりの流れをくむ、独自の技術が培われた。「マネキンが芸術と社会との結節点にもなった」
太平洋戦争で島津マネキンは途絶えたが、戦後に元社員らが関わり、3社で再興。今に至っている。
「こうなりたい」と願う人たちの欲求を形に
その一つ、「吉忠マネキン」を訪ねた。60年代に流行したミニスカートの女王・ツイッギーや、70年代にパリコレで活躍した山口小夜子を模したマネキンが並ぶ。「マネキンにはその時代の人々の憧れや夢が映し出されています」と吉田忠嗣社長(83)。芸術系大学の出身者らが、「こうなりたい」と願う市井の人の欲求を形にしてきた。
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2種類
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル
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