76年前の1945年6月、沖縄の地下に掘られた洞穴で、一人の軍人が自ら命を絶ちました。海軍司令官の大田実さん。残された子や孫は、故人への思いを抱えながらそれぞれの道で「平和」を目指しました。今回は、元海上自衛官の四男や高校教諭をめざすひ孫らが登場します。大田さんが願った沖縄県民への「ご高配」は果たされたのでしょうか。
那覇の街並みや東シナ海が見渡せる沖縄県豊見城(とみぐすく)市の小高い丘で6月13日、旧海軍の慰霊祭が営まれた。だが今年は、コロナ禍のため遺族の姿はなかった。
76年前のこの日、地下にある司令部壕(ごう)で司令官の大田実氏は自決した。四男の大田豊さん(76)は2年前まで毎年参列してきた。父だけではなく、沖縄戦で亡くなった20万人以上の人たちに向けて手を合わせるためだ。
自決の2カ月前に生まれ、父のことは知らない。戦後、海上自衛官の道を進んだ。自宅には旧海軍関係者が訪れ、母と思い出話をすることもあった。先に自衛官となった兄の落合畯(たおさ)さんもいて、自衛隊は身近だった。
1998年、豊さんが最後の任地として赴いたのは、沖縄県うるま市の沖縄基地隊だった。
初めて沖縄で暮らしてみて、米軍基地に囲まれる現地の負担を肌で感じた。「いい場所は全部基地になっているな」。フェンスで囲まれた米軍基地の中は広々としていた。基地のすぐそばに住宅地が広がる場所もあった。相次ぐ米軍がらみの事件や事故を「怖い」と感じた。ここで暮らす人々の不安を思った。
ご高配と基地問題 大田が願った未来になっているか
司令部壕に実氏の遺族20人以上が集まったのは77年5月のことだった。三十三回忌の節目。遺骨が慰霊塔に納められ、実氏の電文を刻んだ碑が除幕された。
《沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル