大谷翔平の160キロに挑んだ夏 鉄道員の今も、心に生き続ける一球

【動画】11年前の夏、大谷の160キロに挑んだ 心に残る三振の記憶=柴田悠貴、長島一浩撮影、岩手朝日テレビ提供

 米大リーグ・エンゼルスの大谷翔平選手が本塁打王争いを独走中の9月上旬、駅員の鈴木匡哉(まさや)さん(28)は福岡市北東部にあるJR香椎駅のホームにいた。配属されて9カ月が過ぎ、指さし確認で列車を見送るしぐさも板についてきた。

 11年前の夏、日米のスカウトが注目する花巻東の大谷選手と岩手大会の準決勝で相まみえた。一関学院のエースの鈴木さんは7点を追う六回表2死一、三塁で左打席に立った。バットをくるくる回し、軽く息を吐いて構えた。

 初球は157キロ、4球目は159キロ。フルカウントに追い込まれたが、「ワクワクしていた。次も真っすぐでくる」。6球目、内角を突かれた。バットは出ず、見逃し三振。電光掲示板の「160キロ」が目に入った。

 「うなるような直球で、気持ちが伝わってきた。大谷選手の160キロを体感できたのは、かけがえのない財産」。この試合、3打数無安打で、チームは1―9の七回コールドで敗退した。

 高校卒業後、社会人野球のJR九州硬式野球部に入団した。「大谷選手と同じ舞台でプレーしたい」と将来のプロ入りを志した。直球の最速が高校時代より7キロ速い144キロまで伸びた3年目の秋には、先発陣の一角を担うまでに成長した。

 4年目の2016年、アクシデントに見舞われた。痛みを感じた利き腕が「左ひじ内側側副靱帯(じんたい)損傷」と診断された。1年間は治療に専念したが、完治はせず、かばいながらの投球が続いた。

 転機は19年秋の日本選手権2回戦。0―0の六回に3番手で登板し、先頭打者に本塁打を打たれた。3球のみで降板。チームは0―4で敗れた。

 試合後、当時の野中憲二監督(53)に打ち明けた。「プロに行く力がないのに野球を続ける意味があるのか。やめたい」。沈黙のあとに返ってきた言葉を、今も覚えている。「プロに行くだけが野球ではない。もう一回、一緒に勝負せんか」。恩師の思いが胸に染みた。

 フォームを横手投げに変え、先発完投型から中継ぎへ転向を申し出た。変化球を効果的に使い、要所で起用された。

 昨秋、所属10年目を一区切りと考え、引退を決断した。「仕事でも人生でも壁にぶち当たるときが来る。そのとき、大谷選手とプレーした時間や野球を通してできたつながりが、自分を支えてくれる」。悔いはない。

 この日も、大リーグのニュースを昼休みに確認し、制帽を手に駅員室を出た。改札には背筋を伸ばして、利用者に声をかける鈴木さんの姿があった。(柴田悠貴)

Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

Japonologie:
Leave a Comment