天皇と五輪の微妙な関係 開会宣言と感染懸念の「拝察」

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聞き手 シニアエディター・尾沢智史 編集委員・塩倉裕

 東京五輪の開会式で天皇が開会宣言をする。一方、五輪がコロナ感染拡大につながらないか、天皇が懸念しているとの「拝察」も。天皇の開会宣言を、どう考えたらいいのか。

問われる現代の元首のあり方 清水剛さん(東京大学教授)

 五輪憲章では、開会宣言は開催国の国家元首が行うと定められています。なぜ元首なのか。それは、国家の捉え方から来ていると思います。

 国家元首は英語で「ヘッド・オブ・ステート」です。本来は住民の集合でしかない国をまとめるために、国家は一人の「人」で、人格を持つと考えた。人ですから「ヘッド」が必要になる。この場合は頭脳という意味より、「顔」に近いでしょう。国家という「人」を代表する「顔」として元首という個人が必要とされたわけです。

 ある集団を「人」と見なす考え方は、教会に起源を持ちます。それが国家や会社など、様々なものに応用されるようになった。法人すなわち「人」と見なすことで、大きな集団がそれ自体として動くメカニズムを感覚的に理解できたからです。

 五輪の開会宣言を元首が行うのも、国家を「人」と見なす発想の表れでしょう。国として「開会を宣言します」という時、「顔」である元首が行うのは理屈としてわかりやすい。天皇は、憲法上は元首とはされていませんが、国家の意思や人格を体現できる存在として、過去の五輪でも開会宣言を行ったわけです。

 憲法1条で、天皇は「国民統合の象徴」とされています。ばらばらな国民を国家という一つの人格に統合し、その「顔」として存在しているという点では、象徴天皇は本来の元首的なものに近いと言えるかもしれません。

記事の後半では、立命館大学教授の権学俊さんと作家の赤坂真理さんにも五輪をめぐる天皇論について伺っています。

 元首の役割は対外的なものと…

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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル

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