75回目の終戦の日を迎えた15日、北九州市小倉北区黒原の平和公園に一組の夫婦の姿があった。戦没者の遺族でつくる小倉南北区遺族連合会事務局長の宮崎賢二さん(77)と妻シヲ子さん(77)。同会は例年、終戦の日に平和公園で慰霊祭を催すが最近、参加者は宮崎さん夫婦を含めてわずかしかなく、今年は新型コロナウイルスの影響で中止。それでも夫婦は2人だけでも「慰霊祭」をやろうと足を運び公園内の忠霊塔前で黙とう。「戦争は幼かった私たちを苦しめた。二度とあってはならない」と不戦の思いを改めて強めた。 宮崎さん夫婦は結婚を決めた47年前、約束を交わした。「子どもたちには絶対に貧しい思いをさせない」。強い思いの裏には2人がそれぞれ経験した幼少期の記憶があった。 終戦時。ともに2歳だった2人。賢二さんは父一郎さんを戦争で失っていた。 一郎さんは、げた職人として一家を支えてきたが徴兵され、1945年6月14日、乗っていた護衛艦が沖縄近海で攻撃され、亡くなった。まだ34歳だった。
大黒柱を失った母政子さんは賢二さんと妹の順子さんを連れて実家に身を寄せた。政子さんは実家の農作業を手伝い朝から晩まで働いたが、生活は貧困を極めた。賢二さんは「魚や肉が食卓に並ぶのは月に一度あるかないか。常に空腹だった」と振り返る。 シヲ子さんは4人きょうだいの長女として今の門司区に生まれた。戦争に家族の命を奪われることはなかったが、終戦直後、父親は空襲で被害を受けた門司で仕事を見つけることが難しく、家族と離れ、大工として出稼ぎに行かざるを得なかった。敗戦の影響なのか生活は厳しく、母親も家計を支えるため魚の行商で働きづめ。シヲ子さんは仕事で忙しい両親に代わって炊事、洗濯などの家事をしながら、5歳下の妹と7歳下の弟の面倒もみた。厳しい日々だったためか、シヲ子さんは「子どもの頃のことは思い出したくない」と漏らす。
2人は知人の紹介で出会い結婚。賢二さんが29歳、シヲ子さんが30歳のときだった。賢二さんは製造会社で43年間働き、シヲ子さんは専業主婦として家庭を支えた。決して裕福ではなかったが2人の子どもは大学まで行かせた。 子育てを終え、小倉南区で暮らしながら遺族会の運営に尽力する賢二さんとシヲ子さん。今、心配するのは遺族会による慰霊祭が今後どうなっていくかだ。
遺族会の会員は約20年前は200人近くいたが高齢化で今は70人ほど。体が不自由な人が多く、慰霊祭への参加は一昨年は夫婦含めてわずか3人だった。台風に見舞われた昨年は今年と同様に中止だった。 「若い世代には日本が戦争をしたことさえ知らない人もいる」と2人。今回、2人だけでも「慰霊祭」を催したのは、継続することで今後、若い人の参加につながればとの思いもあるからだった。「来年も自分たちの体が動く限りやります」 (野間あり葉)
Source : 国内 – Yahoo!ニュース
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