平和台を創った男 岡部平太伝 第4部<2>
スポーツの聖地・平和台(福岡市)を創設した岡部平太(1891~1966)。糸島で生まれ、福岡、東京、米国、旧満州、そして世界中であらゆるスポーツを体得・研究し、生涯をかけて「コーチ」に徹した。「2020東京五輪」を前に、日本近代スポーツの父ともいえる男の波瀾(はらん)万丈な生きざまを追う。
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岡部平太は1923(大正12)年5月、大阪で開催される第6回極東選手権競技大会(極東大会)に向かった。大会は日本、中華民国、フィリピンの対抗戦。ここに満州の選手を参加させるのが、満州体育協会の最初の目標だった。
内地とともに、日本が統治していた朝鮮、台湾も含めた予選で出場権を得た満州勢は、陸上と水泳の20人足らず。記録的にもメダルには届きそうになかった。しかし、オープン種目に採用された女子水泳に出場する2人は上位が狙える、と岡部は踏んでいた。
女子スポーツの普及にも尽力していた岡部は、前年に初開催した全満水泳選手権で女子選手への門戸を開いた。大会では、高校生の飯村敏子と杉江正子が日本記録を上回る活躍を見せ、それ以来、岡部は付きっきりで指導。特に自由形の飯村には、米国留学中に覚えたクロールを教え込んでいた。クロールは、まだ日本では普及していなかった。
岡部の思惑は当たった。極東大会で、自由形の飯村は50メートルと200メートルで優勝し、100メートルで2着。平泳ぎの杉江は100メートルで2着に入った。
岡部の教え子で、福岡教育大学名誉教授だった厨(くりや)義弘(故人)は「先生は満州時代から、水泳では若年層が有利だと発表していたが、理解されなかった」と語っていた。逆にアメリカとオーストラリアが岡部の考えを取り入れ、水泳大国を築いていく。
それでも岡部は研究を継続。40年近くを経た61(昭和36)年、若年層におけるエネルギー代謝の優位性を説く論文で、久留米大から医学博士号を授与された。
満州をスポーツ王国にするため、岡部は陸上、スケート、バスケットボール、バレーボール、ラグビーなどの各種大会を開催。満州ラグビー蹴球協会を創設するなど、組織づくりにも力を入れた。
冬はスピードスケート。大人が暖かい部屋で娯楽にふけるのを見て、岡部はこう思った。
「満州の冬を日本人が制圧するためには、氷との闘いを試みないと駄目だ。スピードスケートは民族が新たな地域に定着するために必要だ」
岡部は31(昭和6)年、第1回スピードスケート世界選手権の監督を務めた。冬季競技の普及振興にも日本で最初に取り組んだ先駆者だった。 (文中、写真とも敬称略)
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厨義弘氏は今年6月21日、肺炎のため亡くなられました。取材への協力に感謝するとともに、心よりご冥福をお祈りいたします。
西日本新聞社
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Source : 国内 – Yahoo!ニュース
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