あの日から5年。地震で傷ついた熊本の街の復興は、確かに進んだ。ただ、被災者一人ひとりには、消えない記憶があり、取り戻せない日常があり、次世代に残すべき教訓がある。朝日新聞のアンケートに回答した人たちを訪ねた。
早くうちに連れて帰ってあげたい。その一心で、工事を急いだ住まいだった。なのに今、自分一人だけが住んでいる。
澤田稔さん(85)=益城(ましき)町小谷(おやつ)=の自宅兼店舗は地震で全壊した。今の家は、隣にあった木造倉庫をリフォームしたものだ。倉庫には3部屋を造り、玄関には日本舞踊をする妻セイ子さん(83)がけいこで使った大きな鏡を、居間には衣装や写真を置いてある。離れて住んで1年半になる。
建設会社に勤めていた澤田さんは24歳の頃、散髪に訪れた「理容さわだ」でセイ子さんに出会った。1年後に結婚した。
60年余り前にセイ子さんが開いた店には、理容椅子が二つあった。近所の人がお茶を飲みながら、語らう場所だった。誰にでも話しかける社交的なセイ子さんは、夜は倉庫で日本舞踊も教えた。
2016年4月16日未明、益城町で2回目の震度7を観測した揺れが襲った。梁(はり)の隙間からはって出て、家の外へ逃れた。1階の店舗部分は潰れていた。
地震の前日まで接客していたセイ子さんは、呼びかけに反応しないほど気落ちしていた。公民館などで避難生活を送り、地震から約2カ月で仮設住宅に入居。澤田さんはセイ子さんを元気づけようと、被災して店を閉じる同業の友人から理容椅子をもらい受け、倒壊を免れた倉庫隣のガレージに置いた。仮設住宅から歩いて自宅へ通い、がれきを片付けた。休む時、セイ子さんは理容椅子に腰掛け、新聞を読んだ。
仮設に入って間もなく、セイ子さんは下ろしたお金をどこに置いたか分からなくなった。認知症の症状だった。週3回、デイサービスに通うようになった。「早くうちに帰さなければ」。自宅の再建は諦め、急いで倉庫をリフォームして19年8月に引っ越した。
セイ子さんは毎日のように理容椅子の背もたれを倒し、昼寝をした。その後も症状は進み、車の鍵を隠したり、外へ出て行方が分からなくなったりすることもあった。その年の10月、未明に倉庫の窓から落ちて腕を骨折。車で15分ほどにある町内の特別養護老人ホームに入った。
澤田さんは週に2回は通っていたが、新型コロナウイルスの感染が拡大した昨春以降は2カ月に1回、窓越しの面会だけになった。セイ子さんの反応はあまりない。今年2月、誕生日祝いで面会した時、連れて行った生後5カ月ほどのひ孫の顔を見て、久しぶりに笑った。「子供みっとニコニコすっとですよね。2、3日前に行ったときは私の顔もみらんです」。顔も分からなくなったのかもしれない、と思う。
ガレージには理容椅子を置いたままにしている。「20歳の頃から椅子と毎日向きおうとったけん、座ると安心したんでしょうね」。澤田さんはこの冬に心臓の手術をした。慣れない自炊が不摂生につながったようだ。「どぎゃんかな、あと3年生きるかな」
今でも、地震がなかったらと考える時がある。地震のことは忘れようがない。(渡辺七海)
にぎわうレストラン、完済間近のはずが
阿蘇外輪山を望む丘に、週に1、2回、開(ひらき)義民さん(72)は足が向く。熊本地震前はペンションが6軒集まる「メルヘン村」(熊本県南阿蘇村)だった。ここで開さんが家族で営んでいた「イタリアン食堂」は、基礎を残して更地になっている。5年経った今も再建の見通しは立たない。
妻の直美さん(69)と1983年に開いたペンションが始まりだった。福岡の有名ホテルで総料理長も務めた息子が約10年前に戻り、レストランに力を入れると当たった。パスタや牛ほほ肉のワイン煮込み、開さんが築いた釜で焼いたピザ。最大30人ほどが入れる店は連夜、周りのペンションや旅館から来る客でにぎわった。地震直前の売り上げは好調で、ペンションの購入費や改修費はあと4、5年で完済できる見込みだった。
そこで地震に見舞われた。20…
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Source : 社会 – 朝日新聞デジタル